(2007vd小噺)
うみのイルカを紅は良い男だと思う。
スッキリとした体躯、美しい姿勢、凛とした顔立ち、落ちついた声、無駄のない動き、常に冷静な態度、忍としての腕も中々だ。
突出した才はないけれどバランスが良い。
里内でもイルカに憧れる者は多い。
階級を問わず、だ。
イルカは中忍だが、上のものに決して軽んじられることはなかった。
これは単にイルカの人徳、いや、生まれ持った才能かもしれない。
紅は常々思っていた。
なぜこのような男が今だ中忍なのだろうか。
里の上層部は何を見ているのだろう。
イルカこそ、木の葉の宝と呼ばれるべき男だ。
今、目の前に居るこの頭の悪そうな男ではなく。
「ぉらぁぁぁぁーーーー!!!」
ドンガラガッシャーーーン!!!
ものすごい雄たけびと共に調理室に備え付けの調理台が吹っ飛んだ。
周りに居た女の子達は皆紅に庇われ無事だったが、それでも調理室の中は悲惨な有様だった。
「カカシ」
紅は怒気を露に調理台を吹き飛ばした男の名を口にした。
子供達を守ることは出来たものの、この男の強行を止めることが出来なかった自分の力不足が更に紅の怒気を煽っている。
(私としたことが)
「こんなもん!こんなもん!」
紅が己の不甲斐なさを噛み締めている間にも、里の誉れと呼ばれる男が調理室の壁にチョコレートの入ったボールやらを投げつけている。
周りの子供達はそれをただ青ざめた顔で眺めていた。
「いい加減にしなさいよ!」
紅が一人興奮している男の背中に容赦なく脛を叩きこむと、男はようやっとその動きを止めた。
ユラリと周りの空気を震わせ紅を振り返る。
カカシに容赦なく睨みつけられ、子供達は半べそになってしまった。
しかしまた、睨みつける本人もその目に涙を溜めていた。
紅は心底情けなくなった。
紅が情けながる間にもカカシは子供達に「バレンタインなんかに踊らされる奴は馬鹿」だの「チョコレートを作ったところで受けとって貰えると思うな」だのと罵っている。
子供達はカカシの言葉よりもその血走った目に恐れを為していたが、一人だけ勇敢な娘がいた。
「カカシ先生には関係ないじゃない!!」
桃色の髪をした娘だ。
確か、サクラといった。そうだ、カカシのところの生徒だ。
紅は感心したようにその娘の憤る姿を眺めた。
娘は勇ましかった。憮然と立ちあがり拳を握っている。
昼過ぎから懸命に作ったチョコレートをあと少しで完成というところでぶち壊されたのだ。
好きな相手を想い心を込めて作っていたそれに罵声までも浴びせられ、怒らないわけがない。
「自分が貰えないからって僻まないでよ!!」
「なんだと?」
「大体、モテない人に限ってそんなこと言うのよ!情けない!だからモテないってのがわからないのかしら!!」
みるみるうちにカカシの周りの温度が下がっていく。
殺気立つ空気にそれでもサクラは構わず男の痛い処を容赦なく抉るように罵った。
サクラの言っていることは全て事実だった。
里の誉れとまで呼ばれるこの男、生まれてこの方モテた試しがない。
忍としての腕は確かだし、容姿もそう悪いわけではない。一見胡散臭そうな風体だが、面構えは悪くないのだ。
けれど性格は最悪だった。
早熟故の非常識さと個性的な脳ミソの合わせ技で、仕事以外で付き合いたくない奴ナンバーワンの座をこの10年死守している。
実力名声にかつ若さも兼ね備えているというのにくの一にすら倦厭されていた。
はたけカカシはそんな男だった。
天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
人として過ぎる程の力を持つ男は、人として生きていくための理性というものを全く持ち合わせていなかった。
紅は、大の男が小娘に罵られて本気で悔しがる様子に呆れた眼差しを向けた。
「かわいそうなカカシ先生!!イルカ先生にチョコを貰えないのね、ザマーミロ!!!」
その時、サクラは一層大きな声でカカシに言葉を放った。
カカシの動きが一瞬で止まる。
紅は、「あら」とつい声をあげてしまった。
「カカシ、イルカ先生に振られたの?」
初耳だわ、と笑う紅に向ってカカシは手元にあった木ベラをその顔に思いっきり叩きつけた。
「おまえなんか大嫌いだ!!」
肩をおおげさにいからせカカシが怒っている。
「おまえも、おまえも!皆嫌いだ!バーーーーーカ!!!!」
周りの子供達にもヤツアタリしながらカカシは調理室を逃げ出した。
「あ、待て!この変態上忍!!」
そう言いながらサクラが手当たり次第調理器具をカカシの後姿に向って投げている。
紅もぶつけられた木ベラを振りかぶって投げつけた。
それだけが、カカシの後頭部に突き刺さった。
「・・・・とりあえず片付けましょうか」
カカシが居なくなり、喧騒が収まると、紅達の目にはチョコレートまみれになった調理室の惨状だけが目に映る。
ため息交じりに紅が言うと、子供達は大人しく片付けを始めた。
「ねえ、カカシって振られたの?」
壁のチョコレートを雑巾で拭きながら、紅はサクラに聞いた。
サクラはさして興味もなさそうに、「いいえ」とだけ答えた。
「じゃあどうしてカカシはチョコレートを貰えないの?」
「イルカ先生ってこういうのに全く興味がなさそうなんで」
「あー、そういうことね」
確かにと紅は合点がいく。
イルカにはこのような軽薄な行事は似合わない。
決してチョコレートを渡す行為を軽蔑したりはしないだろうが、誰もイルカのピンと張り詰めた空気を前に色事を匂わすことは出来ない。
またイルカ自身、色事には無縁そうだ。
(いい男なんだけど)
紅は思い、いや、と考えなおした。
いい男ではないな。
女に色気を感じさせてはならない男など、いい男ではない。
可哀想だが、イルカもまた平凡とは程遠いところに居た。
その後少女達は調理室の清掃を終え、結局何も持たぬまま家路に着くことになった。
帰りがてら紅は商店街へ足を踏み入れ、心底うんざりした。
カカシが居る。
商店街の一角にある特設バレンタインコーナーで大暴れをしていた。
先ほど見た情景と全く同じである。
目を血走らせ、チョコレートの積んだワゴンを蹴飛ばしていた。
周りでは突然の襲撃にもかかわらず女達がギャ―ギャ―とカカシを喚きたてている。
「バカ」だの「死ね」だの「ブス」だの「ブ男」だの。
紅はこの光景を見なかったことにして踵を返した。
カカシはバレンタインデーが嫌いだった。
それは桃色の髪を持つ少女が言ったようにモテない男の僻みだった。
同様にクリスマスも嫌いだった。
決して自分には縁がないからだ。
己の生まれた日を世界中に祝わせるどこぞの傲慢な宗教家など、磔にされて当然とすら思っていた。
カカシは罰当たりな男だった。
「そんなにチョコレートが欲しいなら、イルカ先生に頼めばいいじゃない」
紅はクナイの手入れをしながら、バレンタイン特集が載る雑誌を引き千切る男に提案をした。
カカシは変人だがイルカという素晴らしい恋人が居る。
ハタから見ると決して「恋人」には見えないが、カカシがイルカを恋人だと言い張るので皆黙ってそれを聞いていた。
「誰がそんなもん欲しがってるのよ。寝言は寝て言え」
「顔にチョコレートくださいって書いてあるわよ。意地汚い」
「書ーいーてーまーせーんー」
カカシが青筋を立てて紅に抗議をする。
「じゃあなんでいちいち大暴れするのよ」
「乱れた風紀を正してるだけですー」
憎たらしい口を聞く。
カカシは既に里のめぼしいバレンタイン特設会場を破壊し尽くしていた。
毎年この時期になるとカカシは同じような破壊行為を繰り返すが、菓子屋も女達も決して屈することはなかった。
けれど、この時期になるとチョコレートの単価は急騰するのも事実だ。
カカシの破壊行為にうんざりした一部の商人たちはこの時期になると店を閉める。
需要があるのに供給が追いつかず、この時期は極端な菓子のインフレ状態に陥る。
我侭一つで里の経済をも動かす男、カカシが疎まれるのも当然だった。
「あんた意地張ってるとイルカ先生に嫌われるわよ」
紅の言葉にカカシは面白い程に反応し肩を強張らせた。
「べっつにぃー、イルカにどう思われようが関係ないしぃぃー」
強がりを言いながらカカシは急にソワソワしだした。
忙しなく視線が宙を泳いでいる。
紅は本当のところ、カカシは今年バレンタインデーの襲撃をしないのではないかと考えていた。
軽薄な脳ミソを持つこの男のことだ、恋人を手に入れた途端手のひらを返したようにはしゃぐのではないかと予想していた。
けれどそれは外れた。
しかもカカシのこの余裕のない態度。
紅はニヤリとほくそえんだ。
「あんた、心当たりあるのね」
「ねえよ」
「嘘よ」
「ねえったらねえ!!」
「嘘」
「うるせーーーー!!!バーカ、ブース!!!俺はなあ!チョコレート貰おうなどと卑しい気持ちなんかこれっぱかしも持ってねーんだよ!!それをあのイルカの野郎、「はぁ?バレンタイン?」だと?!馬鹿にした顔しやがって!!何様だってんだ!!」
「カカシ、あんた・・・・」
烈火の如く怒りくるう男に紅は憐憫の眼差しを送らざる得なかった。
カカシは言ったのだろう、きっと。
チョコレートを強請り、それをイルカに一蹴されたのだ。
カカシのプライドは極端に高い。(たまに極端に低い時もある)
紅は決して幸せになれるはずのないこの男に初めて同情をした。
「カカシがバレンタインデーのチョコレートを楽しみにしているわ」
イルカの硬質なオーラを真正面から受けながら、紅は先日カカシに抱いた同情心を思い出していた。
可哀相な男のために何かしてやろうなど考えもしなかったが、偶々イルカと出くわしてしまった。
ならば、一言くらい忠告してみようか。
二人の関係など紅はさして興味もなかったが、カカシがもたらす経済ショックには多少なりとも影響を受ける。
ここで一言二言いったところでこの鉄面皮の男が何を思うわけでもないだろうが、言わないよりはマシだと思った。
「すっっっごく楽しみにしてるわ」
イルカはジっと紅を見据えていた。
明らかに無反応だ。バレンタインデーには本当に興味がないのかもしれない。
(・・・やっぱり駄目か)
わかっていたつもりでも、こうも無反応だと面白くない。カカシがなぜいつもイルカに対して憤っているのかわかる気がした。
「引き止めて・・・悪かったわ。お疲れ様」
そのまま紅は去ろうとした。
「夕日上忍」
だが、心なし急いた声で呼び止められたのだ。
いつもの凛とした声に迷いがある。珍しい。
「なに?」
振り返って紅は目を見開いた。
イルカのあの無表情がなくなっていた。僅かに眉を下げる顔には戸惑いの色が窺える。
(初めて見た・・・)
「バレンタインデーには、何をすれば良いのでしょうか?」
紅は驚きに周りの音を一瞬忘れた。しげしげと目の前の男を眺める。
「バレンタインデーとは、どういう日なのでしょうか?」
(おっどろくわあ)
中々可愛いではないか。
イルカの姿は美しいと思ったことはあっても可愛いなど思いもしなかった。現に、つい先ほどまで色気もへったくれもないただの朴念仁にしか見えなかった。
だが、このイルカはどうだ。
焦燥感のにじみ出るこの態度は何を物語っているのか。
「・・・イルカ先生、まさかカカシのことが好きなの?」
イルカの質問を紅は聞いていなかった。
逆に問うてしまった。
――そのように貴方を焦らせるものとは?
イルカの硬質な空気が揺らいだ。
「ああ、・・・ごめんなさい。こたえなくて良いわ。不躾だったわね」
つい口を吐いた言葉は自分の立ち入る領分ではない、紅は詫びると改めてイルカと向かいあった。
真摯な態度には真摯な態度を尽くさなければ。
紅はイルカの問いに答えようとした。
真正直に「バレンタインデーとは?」など聞かれ、どう答えれば良いか迷ったが、あのカカシの考えるバレンタインデーは多分こうだろうと憶測の上、答えた。
チョコレートを憎々しげに踏み割っていた男は、何より形に拘っている。
イルカはわかりにくいがカカシに恋情を抱いている。カカシも少なからず感じているだろう。
けれど、それじゃあ足りないのだ。
聞けぬ言葉の変わりに物を強請る。それは至極まともな感性だと、紅はカカシを見直した。(これまでは無意味に騒ぐヒステリックな馬鹿男だと思っていた。)
「チョコレートを渡せばいいのよ。カカシのためのチョコレートを用意すればいい」
随分面白味のない言い方になってしまったが、カカシの求めるものはソレなのだ。
イルカからのチョコレート、それで充分だろう。
(だって、イルカ先生はカカシを好きだもの)
大事なものは既にイルカは持っている。後は渡すだけだ。チョコレートはそれの入れ物に過ぎないのだから。
紅は地団太を踏みたいのを何とか堪えた。
(あの野郎・・・!!)
紅はガランとした棚の前で、親の敵の如き執着でバレンタインと名のつく物を破壊していた同僚を心中で罵った。
もう何軒目だろうか、このような落胆を味わうのは。
バレンタインデーを翌日に控えたこの日、紅も恋人への贈り物を探しに出かけていた。
けれど、――ない。
紅の探すもの、チョコレートが何処にもないのだ。
「何でないのよ。裏に家族分とかとってあるんでしょ?さっさと出しなさいよ」
紅の横で店員はオロオロと顔を青ざめさせていた。
「ほ・・・本当にないんです!今年はロクに仕入れも出来なくて、ある分は全部売れてしまって・・・!申し訳ございません!!」
ペコペコを米搗きバッタの如く頭を下げる店員に一瞥をくれ、紅は次の店へと向かうべく立ち去った。
(まさかコレほどとは・・・!)
カカシのせいでチョコレートのインフレ状態が引き起こされるのは知っていたが、ここまでの品薄に陥っているとは予想外だった。
どの菓子屋も既に完売状態なのだ。いや、菓子屋だけじゃない、デパートやスーパーやコンビニにも寄った。
けどなかった。
ここまでないと意地になる。
紅は商店街の寂れた駄菓子屋にも足を向けた。
けれど、そこですら、なかったのだ。
ちなみに先ほどの店は味噌屋だ。いつもこの時期になると「特性〜味噌チョコレート」なるものを売り出していたので足を向けてみた。
最早チョコレートなら何でも良かった。
2月の寒空の下を紅は薄着でズカズカ歩く。鬼気迫るその形相に人々は道を譲った。
ふと、紅は自販機の前で足を止める。
ほっとココア
(これでもいいかしら・・・)
探し回った疲れが一気に押し寄せる、妥協しようかと心が揺れた。
フラフラと小銭を手に取り購入ボタンを押した。ガションと音をたて出てきた小さな缶を手に取ると、それはいささか冷めて感じた。
(原材料同じだし)
本当はチョコレートがなくても良いのは知っている。恋人は幸いも形に拘る性質ではない。
形がなんであれ、紅の誠意を汲み取ってくれるだけの度量はある男だ。
大事なものは形ではない。
先日のイルカに思いを馳せる。
この分じゃイルカもチョコレートを入手出来ていないのではないか。
「ホホホ、ザマーミロ」
イルカへではなくカカシへの悪態だった。
身から出た錆とはまさにこの事だ。
せっかくイルカからチョコレートを貰える機会だったというのに、そのチョコレートがどこにもないなど話にならない。
憎たらしい男が自分の首を絞めている様は今の紅とって非常に愉快だった。
「なんて可哀相な男」
同情の余地などあるわけもない。
紅は漫然と微笑むと缶のプルをひいた。
グビリと飲み干したココアはやけに甘い。
その甘さに、そういえばと、紅は思い出した。
(今までだってチョコレートあげたことなかったわよ)
互いに忙しい身である上、さして行事に興味があるわけではない。何故チョコレートに拘ってしまったのか・・・、紅は「あ〜あ」と呟いた。
(あてられちゃってたのよね)
イルカの真摯に戸惑う様子に心を動かされた。バレンタインデーが素晴らしいものに思えた。
恋人に大事なこの気持ちを伝えたいと思った。自分とて大事なものを持っているのだと、わかって欲しい。
紅は立ち止まっていた足を動かすことにした。
家に帰ろう。
恋しい男が待っている。
紅は空になったココアの缶をゴミ箱へと捨てた。
渡したいものは、ものではない、貴方に焦がれるこの気持ちだ。
夜の里を駆けながら、紅はイルカも上手く伝えられると良いと思った。
カカシの喜ぶ様は面白くないが、イルカの気持ちは報われて良いと思った。
(完)
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