アンチエイジング(6)
「・・・ぁー」
「ん? イルカ、起きた?」
背中越しに小さな声が聞こえた。振り返ると小さなイルカがモゾモゾと動いている。
額を俺の背に擦り付ける動きはゆっくりで、まだ半分寝ているようだ。
昼飯を食いそのままイルカは眠ってしまった。
しばらくその姿を眺めていたが時折吹く風の冷たさが心配で、予定より早いが家に戻ることにした。
おぶうと、驚くほどの軽さが心許ない。
けれど、背中はぼんやりとあたたかく不安は愛しさに変わる。
誰かをおぶうことに、愛しさを感じることはなかった。
イルカが特別だということを差し引いても、この行為は決して良いものとは思えなかった。
それは誰かを背に乗せることは、圧倒的にその対象が弱っている者であることが多いせいかもしれない。
どうして血はこんなに早く流れ出るのか。毒はこんなに早く全身を巡るのか。不規則な心音が聞こえる。乱れた呼吸を感じる。感じなくなる。
俺はいつも焦っていた。
焦りに突き動かされる足は遅く、それに苛立ち、さらなる焦りが生まれ。
そのうちに背にかかる重みがなくなっても、焦燥感は消えることなくいつまでも残った。
「こんにちは」
ふいに声をかけられて吃驚した。向かいから女が歩いてくるのはわかっていたが、知り合いでもないましてや忍でもないだろう人にこんなに普通に声をかけられるとは。
一瞬反応が遅れたが会釈を返すと、後から「こんちあ」とイルカの声がした。
それを聞いた女がニッコリと笑う。
俺と同じように、その女の背にも子供が張り付いていた。イルカよりも小さい、赤ん坊そのものだ。
(ああ、なんだ)
女はイルカに話かけていたのか。それが解り驚きに一瞬強張った緊張が解ける。緊張していたというのもおかしな話だが。
里の中でこういう風に脈略のない挨拶を交わすことには慣れていない。
「可愛らしいお嬢さん」
「いえ、この子は男の子でして」
「まあ、あんまりにも可愛らしいから。ごめんなさいね、坊ちゃんだったのね」
女は俺に話しかけながらもイルカを見て微笑んでいる。
その背中におぶわれている赤ん坊も同じようにイルカを見る。
唐突な会話のはじまりに戸惑うものの、中々嬉しいことを言ってくれる女には悪い気はしなかった。
「この子、可愛いですか?」
尋ねると、女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「もちろん」と顔をほころばせる。
「……その子も、可愛いですよ」
イルカの次に。
胸中で大事なことを付け加える。
女はフフと笑うとそのまま会釈をしてすれ違って行った。
その後背を見送る。イルカも同じように、後を振り返っていた。そういえば、あの女の子供も母親と同じものを見ようとしていた。
俺はうまくやれているのかもしれない。
イルカが懐いてくれている、あの母子の姿に俄か自信が湧いた。
「イルカ、女の子と間違えられちゃったね」
背負いなおしながら話かけると、イルカは俺の方に顔を戻す。
「ちやうよ」
怒るわけでもないイルカの否定は実に男らしい。
「イルカは男の子だもんね」
「ねー」
目が合うと当然のように見つめ返してくれる。この小さな存在がとても愛しいと思った。
イルカはまだ元には戻らない。
目が覚め、隣で眠る小さなイルカを見てももう落胆を感じることはなかった。
イルカは泥遊びが好きらしい。そういえば初めてこの小さなイルカに会った時も泥だらけだった。
今もせっせと土を掘り返している。
(結構広かったんだな)
イルカと暮らし始めて三日目、特にすることがないので庭の手入れをすることにした。腰をあげ周りを見渡すとそれなりに空間が広がっていた。
普段使うアパートより里の中心から離れているこの家は借りっぱなしと言っても過言ではない。
もちろん、庭の手入れなどしたこともなく荒れ野もいいところだ。
ただ、イルカがこの庭にとても興味を示し遊びたがった。庭にはびこっている草は特に危ないものではないが、何分よく育っているためイルカの腰以上に伸びている。
しゃがむとイルカの姿は簡単に見えなくなった。
なので、遊ばせる傍ら俺はせっせと草取りに勤しんでいたわけだ。
「これ、いーい?」
立ち上がった俺に気づきイルカがヒョイと振り返った。俺のすぐ脇にある抜いた草を指差して言う。
「いいよ」
頷くとすぐに小さな手が草を掴み、また元の場所に戻る。
丸い後ろ姿は見ているだけで胸がキュンとする。
(あ!)
思い出した。俺はカメラを買っていたのだ。可愛いイルカを残そうと新調したというのにすっかり撮るのを忘れていた。
家の中にカメラを取りに行こうとし、足を止める。
「パックン、イルカのこと見ててね」
日当たりの良い場所で寝ているパックンに声をかけた。のろのろと片目だけひらくと、鼻を鳴らし、またすぐに閉じた。
「すぐに戻ってくるからねー」
一応、イルカにも声をかけておく。丸い後ろ姿は無反応でせっせと土を掘り返していた。
そんなに長い間離れていたわけではない。せいぜい5分程度だ。
なのに、庭から泣き叫ぶ声がした。
「イルカ!」
慌てて庭に戻るとイルカが立ち尽くして声をあげていた。
「どうしたのっ?」
駆け寄り、イルカの体を検分する。怪我をしたのではないか、まず思い当たったのがそれだった。
けれどそれらしき傷は見当たらない。転んだ風でもない。なのにイルカは泣き喚いている。
「なんで泣くの?」
不安に声が震える。
何かあったのは確かだ。抱きしめると体を震わせているのがわかった。何かが小さな子をここまで怯えさせた。
辺りの気配を探るも不穏なものは微塵も感じない。
「イルカ、イルカ」
抱き潰さぬように注意しながら、けれど、実際は力が入らなかっただけかもしれない。イルカを閉じ込めるように腕を回し、頬を寄せる。
叫ぶ声が何を訴えているのか聞き漏らさないようにしながらも、本当はどうしていいかわからないだけだ。
わからないまま抱きしめた。
「どこか痛いの?」
聞いてもイルカは答えない。ただ、振り絞るような泣き声の中に吸う呼吸が混ざりはじめる。
ヒクヒクと喉を喘がせながら、イルカが俺にしがみついてきた。肩を掴む力が驚くほど強い。
「おぬしが居ないからじゃ」
すぐ傍でパックンの声がした。
「ちゃんと見ててって言ったじゃない」
「見てた。おぬしが居ないのに気づいた途端にあの有様だ。取り付く島もなかった」
「……そう」
パックンの言葉に安堵する。何かあったわけではないらしい。ああ違うか。
(俺が居なかった)
胸が詰まる気がした。
抱きしめる腕に力を込めるとイルカはさらにしがみついてきた。
「…大、丈夫だよ。イルカ、だいじょーぶ」
言いながらイルカの背を摩る。大丈夫の根拠などない。イルカにではなくまるで自分に言い聞かせているようだ。
あらゆる不安に襲われる。
俺には何がイルカを傷つけるのかわからない。
仮初めの幼い姿、守るのは俺じゃない方がいいのかもしれない。経験も知識もない俺よりも適任はいくらでも居るような気がした。
それでも。
イルカを守るのは俺でありたい。
うたかたの日々は突然終わる。
召集の合図を空に見た時、足は躊躇うことなく動いていた。
「お前は不憫な奴だねえ」
火影室に赴くと、開口一番に五代目が言った。
「連れて行く準備は出来ています」
背中で眠るイルカを背負い直しながら言うと、「バカが」と呆れたように言われた。
イルカに会いに行ったら里外任務を言い渡すと釘を刺されていた。もちろん守るわけもなくその足でイルカに会いに行った。
僅か数日前の話だが、随分と前のことのように感じる。
「おまえ、隠れる気なんかさらさらなかったろ。呼び出してもホイホイ出てくる。あの啖呵は何だったんだか」
意地悪な五代目の通達に俺もそれなりに言い返していた。「イルカも連れていく」と宣言したし、今もイルカのお泊りセットを脇に抱えている。イルカはもちろん体に括り付けてるし。
一貫性のある行動じゃないか。俺はやる時はやる。
「ええ。ですから連れて行こうと、」
「お風呂遊びセットなんか持って、どこの温泉宿に泊まる気だい」
「イルカはこのおもちゃがないと10秒も湯船に浸かってくれないんです」
あひるのおもちゃを手にとって「ガア」と言うと、手元にあった文鎮を投げつけられた。
「おまえは里外任務に出て暢気に風呂に浸かってたことがあるってのか!」
五代目の怒声にイルカが身じろぎをする。
「そんな大声をあげないでください。イルカが起きてしまいます」
「起こしときな! 今眠ってちゃ夜が眠れなくなっちまうだろ」
なるほど。まだ昼過ぎの時間帯だ。イルカは昼飯を食べるとそのまま眠ってしまった。かれこれ2時間は経つだろうか。幼児にとって昼寝は必須だと思っていたが、この医療プロフェッサーが「起こしとけ」と言うのだからまあ間違ってはないのだろう。
もぞもぞと背中でイルカが動く。それからヒョイと俺の肩から顔を出した。
「あー!」
耳元で歓声に近いイルカの声があがった。途端に五代目の顔から険しさが抜けた。
「元気だったかいイルカ。ほら、おいで」
さも当然のように五代目が手を伸ばす。椅子に腰掛けたまま、さっさと連れて来いと言わんばかりだ。何様だこの人。あ、火影様か。
「イルカは俺にしか抱っこされません」
ピシャリと言い放てるこの優越感。
初めこそイルカは俺に警戒心しか持っていなかったが、今は違う。俺におおいに懐いてくれた。イルカは俺以外の奴にそれがボインだろう里の最高権力者だろうが簡単に抱かれるような浮気者ではないはずだ。
「そうか? 来たがってるように見えるけどね」
ムカつくことを言う。そんなわけあるか。手を振り回しているのはアレだ、寝起きの運動だ。イルカを背から降ろし、抱え直した。頬を寄せ親密さをアピールする。
「そんなことありません。イルカは俺が大好きなんです。ねー、イル」
ガジ
突然頬に痛みが走った。
イルカが俺の頬に噛み付いたのだ。一瞬ののち、五代目が爆笑した。
「随分と懐かれているようだねえ!」
ケタケタとさも愉快そうに笑う。
「イルカ? どうしたの? 痛いよ」
イルカはチキーっと俺の頬を小さい歯で噛み締める。これは痛い。痛いが無理に引き剥がすことも出来ない。
「イルカ、痛い…っ」
「いくー!」
「ッ!」
ようやっと噛みつくのを止めてくれはしたが……なんてことを言うんだ。訴える言葉に呆然としていると、イルカは身を捩って俺の腕から抜け出した。
そのまま言葉通り五代目の元へ駆けていく。それを満足げに五代目が迎え入れた。
「イ…、イルカ! 戻っておいで」
「やー」
イルカは俺の方を見ようともしない。
「さ、どこに行ってもらおうかね。休んでた分キリキリ働いてもらうよ」
目の端で五代目がニヤリと笑うのを見た。けれど、イルカの突然の裏切りに俺はそれどころじゃない。
あの時、まだ思い出す程もないついさっきの出来事だ、俺は確かにイルカと通じ合っていた。
「イルカ……」
何かの間違いかとイルカを呼んだ。
答えたのはイルカではなく五代目だった。
「イルカのことは心配するな。こっちでちゃんと面倒を見る」
心底呆れた目を向けられる。ごもっともだ。
イルカは単に久しぶりに見た五代目に喜んでいるだけだ。別に俺が拒否されたわけでもない。
他愛ないむしろ微笑ましいような光景の中に俺は居るのではないか。
それをわかっていながらも、どうして俺はこうも傷ついているのだろう。
「でも、イルカは俺が居ないと駄目で……」
5分姿を見せないだけで泣き叫ぶ。今度こそひきつけを起こすかもしれないじゃないか。
五代目が怪訝そうに俺を見た。それでも言葉を止められなかった。
「イルカは……」
だから、俺が居ないと駄目なんだ。傍に居ると震える体を抱きしめながら誓った。
誓ったけれど。
「カカシ」
五代目の声音が変わる。実に里長らしい威を持って俺の名前を呼んだ。
「おまえは承知の上で此処に来たんだ」
見透かした言い方に腹が立つより悲しかった。
染み付いた習性に体は反応する。
五代目の式を目にし、抗うことなど考えもつかなかった。
行けば任務を与えられるとわかっていた。イルカを取り上げられることも知っていたはずだ。
俺はこの里に逆らえない。
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