アンチエイジング(5)
夜中に小さなイルカがグズりはしないか、得たいの知れない薬を飲まされているのだ、体に変調をきたすかもしれない。そう思うと心配で、眠るイルカの傍らでずっと寝顔を眺めていた。
薄っすらと白ばみ始めたカーテンに朝の訪れを知る。
外を覗けば、朝焼けが立ち込める靄を照らしていた。
いい天気になりそうじゃないか。
イルカが起きたら一緒に散歩でもしよう。
想像するだけで楽しくなってきた。
イルカの小さく開いた口に耳元を寄せ、穏やかな寝息を確かめる。
(早く起きてくれないかな)
イルカと色んなことをしたい。
飯を食わせ、服を着替えさせ、手を引いて歩くのだ。
イルカは嫌がるかもしれないが俺が気付いてしまった。
あの顰めッ面もまた可愛いことに。
もちろん泣かせることは大いに不本意であり出来ることなら笑わせてやりたいが、結局のところイルカは何をしても可愛いことには変わりなかった。
「罪な子」
思わず呟けば、イルカがピクリと反応した。目は閉じたまま、眉を寄せムニャムニャと口を動かす。
起きるかと期待したが、イルカはそのまま寝返りを打つとすぐにまた穏やかな寝息を立て始めた。
それを見届け、そっとイルカの傍らを離れた。
昨日買ってきた(影分身が)買い物袋を覗き、今日はイルカに何を着せようかと考える。
「何もかも小さいねえ」
手にした靴下のサイズに笑みが洩れる。その小ささが嬉しかった。
小さなイルカも本来のイルカも、俺に対する態度はさして変わりはない。ただ、あの小さな子は俺を頼りにするしかなかい。
早く元に戻って欲しいと思う傍ら、小さなイルカの面倒を見ることに慰められるような気がする。
(・・・大事なものがない)
ふと手が止まる。買い物袋の中をどれだけ漁ってみても、目当てのもがないことに気付いた。
買い忘れとは情けない。
バカめと昨日の影分身に心中で悪態をつく。まあ、結局は俺なわけだが。
しかし、これで今日まず何をするか決まった。
小さなイルカは今でも十分可愛いが、イマイチ物足りない。いつもイルカの頭の天辺で揺れている尻尾だ。あれが見たい。
あるもので間に合わそうにも、さすがに輪ゴムでは気が引ける。
実際にイルカを連れて似合うものを見立てることにしよう。
「・・・自分で着るの?」
少し離れた場所でイルカがコックリと頷く。
とりあえず寝巻きを剥ぐことには成功したが、着せようとすると手足を振り回して暴れる。
裸がそんなに好きかと驚いたが、夏でもないのに下着だけなのはマズイ。風邪をひいたらどうするんだ。
しかし無理に着せようとすると喚くのだ。
「ぼくがする、ぼくがする!!」
少しして、イルカが何を言っているのかわかった。まだうまく発音出来ないイルカの言語ははっきり言って理解できないことの方が多い。
伝わらないもどかしさは俺よりもイルカの方にあるのだろう。俺に対し難しい顔をして地団太を踏むのも、そのせいかもしれない。
「わかった。・・・頑張りなさい」
またイルカがコックリと頷く。
とりあえずイルカの様子を見ようと炊事場に引っ込むが内心気が気じゃなかった。
そっと覗くと、イルカは早速ズボンを履こうとし小さな体をよろけさせているじゃないか。
(危ない!)
咄嗟に手近に居たパックンを引っつかみイルカの方へと投げた。上手い具合にイルカがパックンの上に転ぶ。
ホっと胸を撫で下ろし、声も上げずにイルカの下敷きになってくれたパックンに感謝する。
しかし、このまま床の上で着替えさせるのは危ない。あと何回転ぶだろうかわからない。
(せめて転んでも大丈夫な場所で・・・)
すぐにイルカの側に毛布を敷き、そこに移動させた。イルカは一瞬ポカンをしていたが、またズボンを履こうと四苦八苦始める。
それをまたそっと覗き、俺も自分の仕度を始めることにした。
既に身支度は整えているので、後は弁当だけだ。
散歩がてら買い物をして、そのまま外で飯を食おう。青空の下ではしゃぐイルカはさぞ可愛いだろう。
ずっと一緒に居れば、イルカも俺に懐いてくれるかもしれないし。
握り飯を重箱に詰めながら、クスクスと笑いがこみ上げるのがわかる。
(イルカには握り飯がよく似合うはず)
「おい、気味が悪いぞ」
足元でパックンが失礼なことを言っている。視線を下ろすと顔を顰めて俺を見上げていた。
「大変だ、パックン!顔が潰れてるじゃないか・・・!」
さっきイルカを庇った時の・・・!
気味悪い呼ばわりされた意趣返しにそう言えば、思いっきり足に噛み付かれた(・・・痛いよ)。
「イルカの着替えが終わったぞ」
痛がる俺を無視してパックンが言う。
居間を覗けば、イルカが満足げな顔をしていた。
「これは・・・?」
随分早いなと思ったが、これは酷い。ずぼんは片方しか足を突っ込んでないし、着ていたはずの下着はイルカの腹のあたりで丸まっている。
その上から上着を着たようだが、それすら後ろ前だわ片手は頭と一緒に出てるわ。しかも靴下は手に嵌めていた。
それを呆然と眺め、・・・そうだ、と思い立った。
髪留めを買うついでにカメラも買って来よう。この面白可愛いイルカを写真に収めるのだ。
ますます楽しくなり、気合を入れて重箱を風呂敷に包む。それを片手にイルカの側へ赴いた。
「さて、お手伝いさせていただきましょうか」
イルカはまた逃げようとしたが、今度はちゃんと捕まえた。
(やっぱりこうじゃなくちゃ)
イルカの頭上には細い尻尾が、イルカの動きに合わせてヒョコヒョコ揺れている。
芝生の上で弁当を食う準備をしながら、イルカが遊ぶのを伺い見る。
愛くるしい顔立ちのイルカは髪を結ぶと女の子みたいだ。
(この子があんな男前に育つんだよねえ・・・)
不思議な気がした。本来のイルカは男前なのだ。
顔の造りも凛としたただずまいも、何処にも女々しさはない。
不思議なのは、そんな男前なイルカが可愛く見えることだった。抱き込んで、頬をすり寄せたくなる。
そうしたいと、胸が痛くなる。
結局は、そればかりが先走りイルカを抱いてしまうわけだが、それで満たされたことは一度もなかった。
好きだと言ってはくれる。
強請れば何度でも繰り返してくれる。
それでも、情事が終わった後に向けられる背は堅く、汗に冷やされた肌の温度がイルカの本音を語っているようで。
それ以上考えるのが怖くな・・・、
(あ・・・!)
嫌な思考は強制的に断ち切られた。
「イルカ!!」
ちゃんと見ていたはずなのに、イルカは先ほどより少しだけ離れた場所で勢いよく転んでいた。
芝生といえど、あの勢いで転べば膝を擦りむくだろう。
慌てて近寄れば、イルカはまだ転んだことが理解できないのか突っ伏したままキョトンとしている。
「大丈夫?!」
抱き起こし、あちこちに付いた草や埃を払った。
擦りむいた膝から血がみるみるうちに滲んでいく。思わず眉をしかめてしまった。
「・・・痛いね」
言い聞かせるわけでもなく言葉が洩れる。
痛くないはずがない。
なのに、イルカは口を引き結んで首を振る。
鼻の頭を真っ赤にして。悔しそうに俯いて。
痛いなら痛いと言ってくれればいいのに。
頑なな小さな子供が恋しい人の姿と重なる。
胸を突く痛み、これはもう何度も味わっている。昨日もそうだった。
まだまだ幼いサクラの背中に痛みがこみ上げた。
何も出来ない自分が情けなくて、それがわかっていながら、間違いに気付いていながら正せない無力さに息を呑んで。
ああ、そうだ。
痛いのは俺だ。俺ばかりだ。
ふいに、足元が騒ぐような気がした。
(いつからこんなに痛がりになった)
まるで閃きの如く、己の言動のおかしさに気付いた。ゾっとする。
俺は、痛い痛い、とどうしてこんなことばかり。
(いつから・・・?)
目の前の小さなイルカを見る。こんな小さな子ですら、痛みを堪えようとしているのに。
今の俺にはそれがまるで出来そうにない。
「どーしたのー?」
ヒョイと、イルカが俺の顔を覗き込んきた。
「え?」
「ないてんのー?」
吃驚して、すぐに言葉が出なかった。イルカがこんな風に自発的に俺に声をかけてくれたことなんてなかったから。
「や、あの・・・」
もしかして、慰めてくれるつもりなのだろうか。心臓が急速に早鐘を打ち出す。
小さなイルカの手が俺の頬に伸びる。
「いたいー?」
何が、と思いはしたが、首を振って否定した。頬にあたる小さな感触がとんでもなく心地よい。
痛いと、あれほど感じていたものは、小さなイルカを前にすっかりと形を潜めている。
(え?)
心底不思議に思った。
小さなイルカが急に俺に優しくなったのも、たったそれだけで、ドン底から這い上がった気分になったのも。
「イルカが一緒に居てくれるから、・・・痛くない」
「も、なかない?」
「うん」
俺は、決して泣いてはいなかったけれど、イルカが慰めてくれるのが嬉しくてとりあえず頷いておいた。
小さなイルカはそれを見ると、満足げに俺の横にちょこんと座った。
「・・・ごはん、食べる?あ、まんま、ね?」
昨日の五代目の真似をしてみた。イルカはとても良い返事をしてくれた。
俺は焦りに焦りながら風呂敷包みをほどいた。せっかく心を開いてくれてるもかもしれないのに、此処で下手なことをしてはどうしようもない。
だが、どうすれば良いのかそんなものは皆目検討もつかず、手元は狂うばかりだ。
風呂敷包みの中からりんごが転がっていく。それを見て、イルカが足をパタパタさせながら笑った。
その足にはさっき出来たばかりの擦り傷が見える。
こんなことに気が回らぬほど動揺しているとは情けない。
しっかりしろと自分を叱咤しつつも、イルカは驚くほどあっさりと傷の手当てを任せてくれたので、俺はもはや浮かれるしかなかった。
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