すべり台を寝床にしていた。
布団はない。言うなれば、星空が布団のかわりだ。
寒い。
父はまだ俺を迎えに来ない。
ホームレス忍者
この頃の記憶はやけに鮮明だ。
印画紙に焼き付けられたような映像は、何年たっても擦り切れることはない。
黄色い髪をした男が再び俺の前に現れたのは、俺が目の前にある茄子をもぎ取ろうと手を伸ばした時だった。
「泥棒は駄目だよ」
大きな手で腕を掴まれる。男はそれ以上何も喋らず、俺を抱えあげた。
手当たり次第に暴れた気がするが、腹が減って力など出るわけもく、ましてや大人相手に子供の力などたかがしれていた。
「離せ…!」
叫んだつもりの声も、実際は弱々しく小さなものだった。
俺を担ぐ男にすら聞こえなかったのかもしれない。男は何も言わなかった。
連れて行かれたのは大きいだけで随分と古ぼけた病院だった。
男が歩く度にギイギイと床が鳴る。
光の届かない廊下は暗かったがどこからか乾いた風が吹き込んでくる。
外からは子供のはしゃぐ声や蝉の声が聞こえた。
それらの爽やかさが鬱陶しく唇を噛み締めていると、男の足がピタリと止まった。
後ろ向きに担がれている俺に男の行動は見えないが、少し身をかがめたのがわかった。
「…ちょっと早かったかな」
呟くと、ようやく俺を肩から降ろした。
そのまま逃げようとしたが、首根っこを掴まれ反動で首が絞まる。
むせこんでいると、ガタガタと扉の開く音がした。
途端に複数の男達の怒鳴り声が聞こえ身が竦んだ。
それらから隠すように黄色い髪の男が前に立つ。
怒鳴り声はやむ事はない。喚くような声は低く何を言っているかすらわからない。
ただこの音には聞き覚えがあった。
喉元に何かがせりあがってくる。
そんな中、奥の方から唯一聞き取れる声がした。
「遅かったじゃないか、ミナト」
よく通る女の声だ。
「お取り込み中では?」
「なーに、もう話は済んでんだ。ちょうどお引取り願ってたところだよ。さ、帰った帰った」
目の前を立ちはだかる男が邪魔だ。男に気付かれぬよう、息を殺して男の向こう側を覗き見た。
女だ。女がいる。
その前に嫌に大きな男が一人、二人、三人。
ああ、この男達は。
目の前が真っ白になるような気がした。
さっきの耳障りな声と言い、この目障りな姿と言い、父と俺を怖がらせていた奴等じゃないか。
喉元に競りあがってくる何かは今すぐにでも吐き出てきそうだ。
ギイと木の床を踏み鳴らす音が後で聞こえた気がした。
「父さんを返せ」
グン、と三人の男達が近くなる。声をあげると濁った目がこちらを向いた。
「…っんだ、このガキ」
「カカシくん…!」
後から、強い力で上半身を押さえられる。
なんて邪魔なんだろうか。
それに苛立ちながら、もう少しでこいつ等に届くのにと振り上げた拳の小ささがまた一層腹立たしい。
「…返せ……っ!」
叫ぶだけじゃ何にもなりやしない。
「借金がおまえの親父にはあるんだよ。これが借用書。すごいだろ。数えてみな。里一年の予算に匹敵するよ。よくまあこれだけこさえたもんだよ。ったく恐れ入る」
女がそう言いながら紙の束を突きつけてくる。
この女があの目障りな男達の仲間ではないことは、5歳の俺でも理解はできた。仲間どころか、女の態度には男達に対する明らかな嫌悪が見える。
女は男達に食ってかかる俺を見て豪快に笑い、白い指先を伸ばしてきた。
睨みつけても構わず伸ばされ髪を乱暴にかき回される。「気に入った」そう言った気がする。
暴れても、ここに連れて来られる時と同じ、大人達はビクともしない。
女は俺を見るともう一度ニヤリと笑い、周りの男達に指図を始める。
あの目障りな男達は相変わらず何かを喚いていたが、女は二言三言話すと、あとのことは黄色い髪の男に任せ俺に向き合った。
そして、紙束片手につらつらと説明を始めた。
かつて父は忍であったこと。
父に多大な借金があること。
さっきの男達はそれの取立て屋であること。
父が里を抜けたこと。
女が一時的に借金の肩代わりをするようになったこと。
俺は置いていかれたこと。
ただ説明されても理解できたのはずっと後になってからだ。
「綱出さま、終わりましたー。って、あんた子供相手に何してんですか!」
黄色い髪の男が再び戻ってきた。
「ご苦労さん。で、話の続きだがね、どんな不条理な金利でも借りた金は返すのが道理なんだよ。わかるね?」
さっぱりわからない。
無言で突きつけられる紙を睨みつけていると、横で黄色い髪の男が喚いた。
「この子まだ5歳ですよ! わかるわけないでしょう!」
「…ったく男のくせにうるさいね、ミナトは。そもそもおまえが着いておきながら、なんでこんなことになった? サクモをみすみす逃がしたのは何処のどいつだい!」
「それは…!」
厳しい女の声に男が怯む。それっきり、男は黙ってしまった。
横目でそれを見やり、口をひらいた。
さっきから女は色々と説明してくれているが、俺が望むことを何一つ言わない。
欲しい言葉は自分で聞き出すしかないと思った。
「父さんを返して」
「あん?」
「父さんはどこ?」
「さあね。そこらで野垂れ死んでるかもね」
「返して」
「カカシ、そりゃこっちのセリフだよ。私だって余裕があるわけじゃないんだ。すぐにだってこの借金返してもらいたいね」
「……おれが?」
「おまえ以外に誰が居るんだよ。いいかい、コレは、おまえのどうしようもない駄目親父が唯一残したものだ。それを受け取らないってのかい?」
結局女は俺の欲しい言葉は一つとしてくれはしなかった。
もう一度、女が俺に紙束を突きつける。
朱色の文字が眼前にひろがる。
ところどころ滲んだインク、「借」の文字、紙を持つ女の爪の色、女の着ている服の白、袖口はほつれ白い糸が短く垂れていた。
そのどれもが目の裏に強烈に焼きついている。
この時の俺に、一体どんな選択肢があったというのか。
そもそも選択肢などありはしないのだ。
選べるものは何一つない。
手を伸ばすと女が赤い唇を吊り上げた。何十枚と重なった紙は分厚く子供の手では持ちきれない。
紙は俺の手をすり抜け、乾いた音をたてながら床に散らばった。
「なあに、おまえだったら親父と同じ仕事で十年二十年働きゃ充分返せるだろうよ。せいぜい励みな」
父の借金の肩代わりに、俺は忍になるしかなかった。
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(2009.1.2)
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