恋の名のもとに(1)



困った。
一体コレは何だ?
目の前に自分の身長を上回る程の大きな箱がある。
上半分が箱の中が透け、そこに紙コップがズラリとならんである。
『そこの自販機でコーヒー買って来い』
先ほどアスマに言われたままにここまで来たが、そもそも自販機ってなんだ?
いや全くわからないわけじゃない。
あれだ、アスマの言い方からするとコーヒーを置いてある機械、それくらいはわかる。
けれど、どうすればコレからコーヒーを取り出すことが出きるのか、それがわからない。
「・・・・・・・・・」
とりあえず並んである紙コップに手を伸ばそうとしたが、箱にはどこにも開け口というものが見当たらなかった。
「・・・・・・・・・」
困った。ほんとに。
この箱ごとアスマに持っていこうか。
そう考えている時だった。
「カカシ先生?」
誰かに呼ばれた。
呼ばれた方に目をやると先日知り合ったばかりの男がこちらを見ていた。
近づいてくる男ととりあえず挨拶を交わす。
「自販機がどうかなさいましたか?」
自販機を覗き込みながら言う男は、ごく自然に俺の間合いに入っていた。
驚きに、一瞬男を見やった。
こんな、ごく簡単に他人に間合いに入ってこられるとは。
里に戻ってまだ数日しか経っていない。その間は完全な休養だったが、それだけで感が鈍ってしまったのか。
半ば信じられない気持ちで己を訝しんだが、そうだ、と思い直した。
ここは里だ。
里とはこういう場所だった。
随分前、僅かではあったが心を通わせた者達と過ごした場所が此処であったとことを思い出した。
その頃はまだこの自販機と呼ばれるものはなかったと思うが。
なにぶん幼かった頃のことだ。ただ俺が知らなかっただけかもしれない。
「・・・アスマにコーヒーを買って来いって言われたんだけど」
「自販機壊れてますか?」
続きを言わずとも、男は適当に解釈をし自販機を検分しはじめた。男が動くたび、頭上に結われている髪が揺れる。眼前に晒されたうなじに目が奪われる。急所をガラ開きにしている男に何故だか妙な、・・・よくわからないが、とにかく妙な気がした。
胸が少しザワつく。
「カカシ先生、お金、入れましたか?」
男の動きを眺めていると、いつの間にか男は俺を振り返っていた。
黒い瞳が真っ直ぐに俺を見ている。胸のザワつきが増した気がして上手く口が回らない。
おかしい、とこの時も思ったが、ここは里だからと無理やり思い直し、男の行動を眺めていた。
男はよく喋り、ごくあっさりと自販機からコーヒーを取り出した。俺は何もせず男の言うことに相槌を打っていたような気はするが、何を喋ったかはよく覚えていない。
ただ男の声はひどく耳に心地良い。ころころと変わるこの男の表情もまた面白い。
もう少し見ていたいと思ったが、アスマに呼ばれてしまった。
しぶしぶと踵を返したが、胸のザワつきが下ってしまったのか思うように歩けていない。
後ろから男の視線が追いかけてくるのがわかり、ますます足がもつれそうになった。

待機所へ戻り、アスマへコーヒーを渡そうとしたが、ふと嫌な気分がした。
「何だよ。さっさとコーヒー寄越せよ」
さも当たり前のようにアスマが差し出した手をジっと見つめてしまう。
あの男が俺にくれたこれをアスマに渡す。今しがたの男の表情や声を思い出すと、これを渡してしまうのはとても惜しい気がした。
「あ!テメ!それ俺に買ってきたんじゃねーのかよ!」
アスマが文句を言っていたが構わずにコーヒーを喉に流し込んだ。これでアスマに渡さずに済んだ。
安心したが、アスマには脛を蹴られてしまった。
「もう一回買って来い」
「いいけど・・・、俺お金持ってないよ」
「あん?俺もねーよ」
しばらく二人で見詰め合ってしまう。アスマの黒い目の玉はさっきのあの男と同じ色のはずなのに、全然胸はザワつかなかった。


里に呼び戻される際、三代目から『少しは休め』と言われた。
『おまえは働きすぎだ』とも。
よく意味がわからなかった。
そもそも「働く」という概念がわからない。
俺にとって任務に従事することは日常であり、当然だった。
飯を食うのと同じように、食えば排泄するのと同じように。
当然だと思っていたものが実は勤労だったのかと知り、少なからず衝撃を受けた。
だが、知ったからといって何が変わるわけでもない。
少なくとも、これまで自分を統べてきた人の言うことには逆らわないでおこうと、それぐらいだ。
休めというのなら、休もう。
疲れた体を横たえ、周囲に神経を張り巡らせることはなく明るい日差しの下を歩くのも良いだろう。
休みの代議名文として与えられたナルトとサスケの見張りにはそれなりに気を配ることもあるが、それも夜が来れば終わる。
そうなると、時間は完全に俺だけのものだった。
何に煩わされることもない。
正直、どうしていいかわからなかった。
そもそも、里に在中することなどこれまでほとんどなかったのだ。あっても怪我をして病院で寝ているぐらいだ。
家は一応あったが、任務と任務の合間に、それこそ寝に行くぐらいのものだった。
固い地面の上で寝るよりは、雨露凌げる場所で寝た方が良い、家とはそんなものだった。
なので、当然その家には何もなかった。簡易的なベッドと毛布、里から支給される忍具、これまで溜めたイチャパラシリーズ、それぐらいだ。
そんな場所で一体何をしろというのか。
休みなので楽なことをすのが良いと思い唯一の趣味である読書をしようとしても、灯りがないとそれすらままならなかった。

「カカシ、肉が食いたい」
ベッドに横たわっていると、呼び出しても居ないパックンの声が足元から聞こえた。
「この前食べたばっかりじゃない」
「もう三日前だ」
「まだ、三日だよ。・・・痛い、齧らないで」
パックンが俺のふくろはぎに噛み付いていた。
主である俺の足を食う程腹を減らしているのかと思うと申し訳なさにも怒る気にもならない。
一応制止はしたが、無理に止めさせることはせず、そのまま噛み付かせたままにしておいた。
パックン以外にもわらわらと忍犬達が集まり、俺の足元でなにやら不満げにグルグル鳴いている。
出来ることなら、俺とてこの共に辛苦を味わってきた大事な仲間達に自分の足ではなく美味い肉を食わしてやりたい。けれどそれが出来ないのが現状だ。
俺は金を持っていなかった。
「先立つものがないんだよ」
横たわったままパックンの噛み付く足を引き寄せた。不満顔のままのパックンの頭をよしよしと撫でる。
数年前までは確かに報酬を貰っていた。
任務の合間に里に戻ると、申請した装束や忍具などと一緒に紙袋を渡された。中に札束が入っていたと思う。
その頃はそれを必要としていなかったので、それを何処にやったのか定かではなかった。
面倒なのでそこら辺に放り投げていたのかもしれない。
金を粗末にした罰があたったのか。
今、必要とする時に、俺の手元には一文もなかった。
「お金って必要だよね」
「・・・金より、必要なのは肉だ」
「その肉を買うのにね、お金が必要なのよ」
諭すように言うと、今度は手に噛み付かれてしまった。パックンは賢いがやはり獣だ、人間社会の複雑さは理解できないのだろう。
「困ったねえ」
呟きながら、昼間のことを思い出した。
困ったことがあるなら何でも言ってくれ、そう言った男がいた。
その男のことを思い出し、また胸がざわめき始める。

あの言葉に甘えても良いだろうか?

社交辞令で済ますにはあまりに惜しい。現状は困っていると言う以外なにものでもない。忍犬達のどころか自分の食事すらままならない。
そう言ったら、あの男は助けてくれるだろうか?
別に食事をたかりたいわけではなかった。
何か理由が欲しいのだ。
もう一度あの男と話したい。
あのコロコロと変わる表情を見たい。暖かい声で俺の名を呼ぶ声が聞きたい。
僅かな光の加減で放つ色を変えるあの黒い瞳が見たい。
それだけだ。


その男――イルカと話す機会はすぐに訪れた。
パックン達の飢餓が極限まで迫っているようなので仕方がなくアカデミーの裏山で食料を調達している時だった。
「山の恵に感謝します」
予想以上の獲物に手を合わせ感謝していると、ふと後方に何者かの気配を感じる。
そちらに意識を寄せ、すぐに何者か知る。
「イルカ」
会いたいと思っていた人の気配だった。軽快な声で「発動確認よし!」などと言っている。
やたら小細工の多い山だと思っていたが、そうかアカデミー生用の演習場だったのか。
思わぬ幸運にますます感謝の気持ちが募る。イルカの気配に引き寄せられるようにそちらへ向かった。
イルカは術の発動時に空いたのであろう穴を埋め直していた。イルカの骨ばった指が印をきり、土を従える。
思わず見惚れてしまった。
盛り上がる土はイルカの意のままに穴を塞いでいく。
簡単な術だ。忍稼業を生業としている者ならば、誰でも出来る技だろう。そう珍しい技でもない。
なのに見惚れた。
俺は声を掛けることもできず、イルカが器用に穴を塞いでいくのを眺めていた。
イルカはその後も忙しそうに動き回り術の発動と修復を繰り返していた。
時折聞こえるイルカの独り言が耳に心地よい。
あの声が俺に向かって発せられないかと期待はしたが、イルカの邪魔をするのは憚られた。
別にイルカに用が有るのではないのだ。ただ俺が会いたかっただけだ。
一方的ではあるがイルカに会うことは適ったのだから、今日はもういいだろう。
せっかく捕まえた獲物を早くパックン達にも食わしてやりたくもある。
名残惜しさを引き摺りつつ、イルカの側を離れようとした。ただ、離れがたくはあったので、せめてもの意思表示に気配は隠さなかった。
もしかしたら気づいてくれないかと、イルカから話しかけてくれないかと期待して。

「カカシ先生?」

呼び止められ、心臓が跳ねた。
振り返り、期待通りの人を目の前にすると、胸がざわめきを始める。
(・・・良かった)
願い適った安堵か、喜びか、イルカが俺を見ていると思うだけで胸が辺な具合に軋んだ。
まるで引き絞られるような感覚を何処か他人事のように味わいながら目の前の人に向き直る。
イルカと目が合うと、胸のざわめきに足を攫われるような気がした。


イルカは非常に面倒見が良い男だった。
俺が困っているのを知ると、「まかせてください!」と胸を叩いた。その頼もしい言葉通り、イルカは俺の抱える問題をあっさりと解決してくれた。
一番の問題は金であり、それさえ解決すれば後は何とかなると思ってはいたが、イルカに言わせると「まだまだ」らしい。
ガスや電気もイルカのおかげで使えるようになり、それだけで俺の家は非常に快適になったのに、それでもイルカには「まだまだ」らしい。


イルカと一緒に商店街に行き、とりあえず必要なものをと鍋やらヤカンやらを買った日のことだ。
買い物のついでにスーパーで惣菜を買い夕飯まで付き合ってもらったのだが、イルカがやけに真面目な顔をして俺を見ていた。
「カカシ先生、米は鍋で炊くものではありません」
「不味いですか?」
口に合わなかったかと不安になったが、イルカはすぐに頭をブンブンと振り「そうじゃありません!」と否定した。
「炊飯器というものがあるんです」
「はあ」
炊飯器のことは知っているが必要なものだと認識していなかった。米は鍋でも炊ける。ないからと言って困っているわけではないが・・・ふと、良い予感がした。
イルカはきっと、俺が困っているのだと思っている。面倒見の良いイルカはきっと、自分が何とかしなくてはと思っているに違いない。
「炊飯器は必要?」
「必要というか・・・便利なんです!」
力強い言葉尻に思わず笑みが零れてしまう。
「カカシ先生、明日、時間はありますか?電気屋さんへ行きましょう!」
「ええ」
是非、そうしてください。
また明日も俺と一緒に居てください。
頷くと、イルカは満足したように食事を続けた。
油の粘ったアジの南蛮漬けと萎びた青物野菜のサラダに鍋で炊いた米、食卓は粗末なものだったがそれでもイルカは何か食べる毎に「これ美味いですね」と感想を言っていた。
惣菜は到底美味そうには見えなかったのに、イルカがそう言うと確かに美味いと感じた。

 今日は電気屋へ。
 明日は畳を見に行きましょう。
 箪笥もありませんね。じゃあ、家具屋へ行きましょう。
 あれ?ここ雨漏りしますよ。梅雨に入る前に修理しておきましょう。

一つ一つ、イルカが俺の家を造っていく。
鮮やかに手際よく。
いつか見たイルカの土遁を思い出す。
あの時と同じで、俺はイルカから目が離せなかった。イルカが居ないと捜してしまう。
本当は申し訳ないと思うこともあった。
イルカは仕事を終え、それから俺に付き合ってくれる。一日中働き疲れているはずなのにそんな不平は一言も漏らしたことがない。
いつも嬉しそうに俺が困っていないか捜していた。
俺は、既に生活に不便を感じることはなくなっていた。
灯りがないからとイチャパラを読めないこともない。
なのに、「もう充分です」とその一言が言えなかった。







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