恋の名のもとに(4)
危惧していたことが現実になろうとしている。
もう一週間、俺はイルカに会えていない。
(今日も居ない)
受付所を見渡しても、イルカの姿は何処にもない。
今までも、イルカは毎日受付に入っていたわけではないが、それでも二日に一度は受付に座っていた。
そういう時は、俺はすぐにイルカの担当する列に並んで順番が来るのを待った。
次々と差し出される報告書を真剣な面持ちで検分するイルカの横顔は凛々しく、どれだけ見ていても飽きない。
イチャパラで顔を隠しつつ、そんなイルカに見蕩れるのが受付での俺の日課とも言えた。
俺の順番が来る前に、イルカは俺に気づいてくれることもあった。
目が合うと、イルカは少しだけあの凛々しい表情を和らげる。すぐに報告書に目を戻すけれど、イルカの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
その変化が嬉しいと。
この、まるで胸がさざ波立つような感触は嬉しさだったのだと自覚したのはつい最近だった。
イルカに会いない日々はイルカを回想する日々でもある。
どんな表情で俺の見ていたか、どんな声で俺に話しかけていたか、何を話したか、何をしたか、何度も何度も繰り返す。
どのイルカも思い出すことが出来た。
まだイルカを意識していない初めての出会いすら、思い出そうとすれば容易く記憶から引っ張り出すことが出来た。あの子達をよろしくお願いします、と勢いよく頭を下げたイルカの髪が音を立てそうなほど鋭くふられる様を俺ははっきり覚えている。
わからないのはこの時の自分の心境だ。
あの出会いに、俺は何を思っていたのだろうか。
情景はこれほど鮮明に思いだせるのに、自分の心境は全くわからなかった。
何も思わなかったのかもしれない。
それが信じられなかった。
俺は、何もわからずに、ただイルカを記憶に刻み付けただけか。
今はこんなにイルカのことばかりなのに。
堰を切ったかのようにあふれ出す感情は、知らないものばかりだった。
だから、イルカが傍に居るときは気づかなかったのだ。
ざわめき立つようなあの胸の疼きが何だったのか、イルカに会えないこの喪失感を感じて初めて、あの時自分は嬉しかったのだと知った。
痛い。
イルカの居ない受付処はまるで暗かった。報告書を提出しなければと適当な列に並ぶが、中々進まない列に苛立ちを覚えそうになる。
こんなところに用はないのに。
イルカの居ない場所に、何の用がある。
手の中の報告書が小さく音を立てる。
クシャ、と。
その音に、俺の前に並んでいた者達が一斉にこちらを振り返った。
「・・・お、お先にどうぞ・・・」
誰かがそう申し出て、我に返る。
こちらに向けられる目に怯えの色を見つけ、心中で小さくため息をついた。
このような場所で感情の一つ抑えきれない。周りに恐れを覚えさせる。情けないと心底思った。
「ごめん、いいから」
極めて平静を装って言ったつもりなのに、誰一人、表情を和らげるものは居なかった。
決して考えまいとしていることがある。
イルカを俺をどういう風に見ているのか。もしかしたら、他の者達と変わらないのではないか。
柔らかい表情の下に俺への畏怖を隠しているのではないか。
チラと掠めるその考えに、否定の言葉を叫びたい衝動に駆られる。
違う、イルカはそんなんじゃないと、皆に聞こえるように言ってしまいたい。
イルカは俺に優しいと、決して恐れてなどいないと、誰にも聞かれても居ないのに、その事実を教えてやりたい。
事実だと、周りが認めるように、叫んでしまいたい。
その願望に嫌気が差す。酷く自分が矮小な存在に思えた。
こんな俺はイルカに優しくされる価値などない。ましてや、俺如きがイルカに恋焦がれる資格などない。
そう、考えが行き着いてしまいそうになる。
それを押しとどめているのはイルカの言葉だ。
『大丈夫』だと言うイルカを信じる。信じるしかなかった。信じている限り、恐れは杞憂でしかないはずだ。
なのに、痛い。
イルカに会えないだけで、足元を恐怖が這い上がる。
それに気づかない振りをしても、いくら信じていると言い聞かせても、胸の痛みが変わることがなかった。
日々増して行くばかりだ。
それでも、例え胸の痛みに苛まれようとも、イルカを想うことを止められなかった。
まじないのように『大丈夫』だと言い聞かせ、会えた時の喜びを想像し、イルカを探した。
受付に居ないならアカデミーへ。そうだ、イルカは三代目の秘書時なこともしていた。なら三代目の元へも行ってみよう。いつも忙しなく動き回っているイルカは捕まえるのが中々難しい。
今頃何処で何をしているのか。
いつかみたいにアカデミーの裏山だろうか。イタズラをして生徒達を追いかけ里中走り回ってるかもしれない。
イルカはよくアカデミーの子供達のことを話した。子供達の話をするイルカはいつにも増して活き活きしている。目を輝かせながら「困った奴等で」などと言う。
しかめっ面なのに、言葉も決して好意的ではないのに、イルカの雰囲気が優しい。
不思議に思い、イルカがアカデミーに居る時間を狙って見に行ったことがある。
運動場で子供達に囲まれるイルカは楽しそうだった。時折怒鳴る声が風に乗って屋上に居た俺の耳まで届く。
ぼんやりとその光景を眺めた。
何かを思い知らされたような気がした。だが深くは考えない。
日の下で惜しげもなく姿を晒すあの小さな子供達は、圧倒的な生命力に満ちている。その中心にイルカが居る。その事実は俺に小さな衝撃と、また幸福感を与えた。
少なくとも、俺がこれまで生き抜いてきた末に、決して他人に誇れることのないこの生き様の先で、あの子達が笑っているのなら、それは悪くないと思う。
「イルカ」
小さな胸の痛みを感じながら、イルカに呼びかけた。
こんな光景を俺はこれまで知らなかった。見る暇などなかった。いや、見ようともしなかった。
俺はこんな世界があることを知らなかったから。知らない世界に、どう興味を持てというのか。
その時、ふいにイルカがこちらを向いた。まさか気づくはずがないと思っていたのに、俺を見上げているようだった。けれど、すぐに視線が逸れそうになる。慌てて手を振って俺はここに居るとイルカに主張した。
「カカシせんせー!」
イルカはとても聡いと思う。俺の望むものをこうやってすぐに与えてくれる。
ああ、気づいてくれた。
それだけでも十分だったのに、驚いたことにイルカの周りに居た子供達も一斉に俺に手を振り始めた。
衝撃だった。これまであんな小さな子供達に、あんな一生懸命に手を振られたことなど俺にはない。
(・・・如何すればいいんだ)
しばらく呆然とその光景を眺めていたが、居た溜まれなくなって屋上を後にした。
なぜか頬が頬が熱く心臓の音が煩かった。
今、思い出しても頬に熱が戻るようだ。
どうしてあの人はああも俺の知らない光景ばかりを見せ付けるのか。暗闇に隠された世界に光が射す。イルカが俺の世界に光を齎す。
(・・・あ!)
三代目に会いに執務室へ向かう途中だった。向かい側にある棟にイルカの姿を見つけた。
何か会議でもしているのか、大勢の者が一つの部屋に集まっている。その中にイルカが居た。
廊下を歩く足が止まる。どんなに多くの者が居ようと、イルカの姿は際立っていた。視線がイルカに吸い寄せられる。向かいの棟の窓越しに、イルカの上半身だけが見える。
どんな表情をしているか、この距離ではそこまで確認できない。
「イルカ」
せめて、こっちを向いてくれないかと、いつかの屋上と同じように呼びかけた。
俺に気づいて。
俺を見て。
それでもイルカが俺を見ることはなかった。
「何の用じゃ」
その声に、やっとの思いでイルカから視線を外すことが出来た。
廊下の先にある執務室から三代目が顔を出している。いつまでも同じ場所から動こうとしない俺への不審感が、三代目の眉間に寄せられた皺の深さからわかった。
「いえ、特にはありません」
もう、無くなったというべきだったかもしれない。もしかしたらイルカの居場所を知らないかと、それを聞きたかっただけだ。
「用もないのにこんなところで何をしておる」
「・・・別に」
イルカを見ていたと答えるのは憚られた。男に、少なくとも俺のような奴にイルカが懸想されているなど知ったら、この里長はどう思うか。
あの眉間に寄せられる皺がますます深くなるだけのような気がした。
そう思い図っただけだというのに、三代目は容赦なく煙管を投げつけてきた。
何が気に食わなかったのだろうか。
不思議に思いながら煙管を手で受け止める。三代目の前まで行きその煙管を返しても、三代目はムっとした表情を変えない。
「失礼します」
このまま二人この廊下で向き合うだけなのはあまりに無意味だ。辞そうと頭を下げたが、「ちょっと待て」と呼び止められた。
「里の生活はもう慣れたか」
「ええ」
「不具合を感じることは?」
同じような問いかけを何度もイルカから聞いた。その度に俺は、困ったことがないかと探していた。
三代目もイルカと同じことを言っている。
「全くありません」
なのに、俺は即答した。同じ問いかけもイルカからでなければ心動かされることもない。
むしろ気にしてくれるなという気持ちの方が大きい。
「そうか」
ムウっと唸るように三代目が俺を見据える。重苦しい気配に何か言いたいのかと思ったが、
「なら、良し」
それだけ言って執務室に戻っていった。
一体何だったのだろうか。わけがわからなかったが、気にすることもない。
再びイルカの方へ視線を戻した。
外は大分日が落ち、イルカの居る部屋の明かりが俄か存在を主張し始めていた。俺の居るこの廊下も決して暗くは無い。天井には点々とあかりが灯っているはずだ。
なのに、暗いと思ってしまう。
イルカの居るあの場所だけが明るく浮かびあがる。
思わず笑ってしまいそうになる。
恋とはこのようなものだったとは!
このように、俺の全てを覆いつくものだと思いもしなかった
もっと甘いものだと、幸福なものだと思った。少なくとも「恋」だとイルカに言われ、それを自覚する以前は幸福だったはずだ。
イルカが傍に居ることが、ただ嬉しかった。
(・・・なんでこうなる)
ただ想うだけで、どうして胸が痛むのか。
光は強制的に闇を自覚させた。
与えられる光が濃いほど、影もまた濃く広がる。それが恐ろしい。イルカの傍で知ったあの幸福感こそが、この現状のやるせなさを際立たせていた。
イルカから「恋」の名を欲しいとあの時確かに俺は望んでいた。それが齎す痛みなど考えもせず。
こんな痛み、決して欲しかったわけじゃないのに。
イルカの夢を見た。淡い光の中でイルカがポツンとたたずんでいる。
嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。
夢の中のイルカは俺の願望そのものだ。望むままに、俺を抱きしめてくれるはずだ。
焦る足つきでイルカの下へ駆けた。
夢の世界は酷く足元がゆるい。まるで抜かるんだ泥のように足を鈍らせた。それでも、「イルカ、イルカ」と馬鹿みたいに叫びながら必死で足を進めた。
手を差し伸べて、あと少しで触れられるという時、イルカが顔を上げた。
イルカは怯えたように俺を見ていた。
差し伸べた手を、まるで恐ろしいものだと言わんばかりに身を竦ませて後ずさる。
絶叫が耳を劈く。
それが誰のものか、俺のものかイルカのものか、もうわからない。
俺はイルカを犯していた。恐怖に顔をゆがめ必死で抵抗するイルカの手足を押さえつけ陵辱した。何度も何度も。イルカを壊してしまうまで。
目が覚めて、俺は泣いた。
もう限界だった。イルカに会えない、目すら合わない日々は耐えられない。
だから、その姿を見つけた時は、藁をも縋る思いだった。
少しでもこの不安を取り除いて欲しいと、子供達を見送るイルカの背に声をかけた。俺の気配に気づき、イルカが逃げてしまわないように、気配を絶ち背後から。
イルカは驚き俺を振り返った。
「あ、こ、こんにちは!」
その声だけで、途端に胸の疼きが軽くなっていく。久しぶりにイルカが俺を見ている。一瞬、怯えの色がないか探してしまったが、そんなもの何処にも見当たらない。
それに安堵する。それだけで十分だ。
世界にまた光が戻る。そうなると、これまで見えて居なかったものに気づいた。
イルカの顔色があまりよくない。
頬に差し込む夕日が削げた頬の線を浮き立たせる。
「最近忙しいの?」
問うと、イルカはヒョイと肩を竦めた。
「ええ。同僚が怪我をしてしまいまして。その穴埋めにてんてこ舞いです」
それで、イルカに会えなかったのか。決して避けられていたわけではない。イルカは本当に忙しかったのだ。
「てんてこ舞?」
繰り返すと、イルカは「はい」と笑った。少し儚げに。
会話は長くは続かない。それでも、イルカと共有するこの時間は幸せとしか言いようが無かった。なんとかイルカを引き止めたくて、必死で言葉を探した。
もっと、俺を見ていて欲しいと。
お願いだから、目を逸らさないで。
そんな風に、俺に背を向けようとしないで。
仕事があるからと踵を変えそうとしたイルカの腕を思わず掴んでいた。
「待って」
もう少しだけ俺に時間を与えて。せめて次の約束をさせて欲しい。
じゃないと、また不安が募る。それに取り込まれそうになる。
(・・・何?)
イルカの表情に愕然とした。イルカは唇を引き結び、地面を睨み付けていた。俺を見ようとしない。
これでは、まるで拒絶されているようじゃないか。
どうしてそんな顔をするんだ。俺は、あんたに危害を加えたりしない。怯えさせるようなことはしない。だから、そんな顔をしないで。
「よう!!」
だから、ガイに声をかけられても、とてもじゃないが返事をする余裕はなかった。普段は何とも思わないあの声をうるさく思った。
なのに、イルカは。
明らかにホっとした顔をしていた。
まるで助かったと言わんばかりに、縋るようにガイへと視線を送っていた。
こみ上げる不安は怒りに変わる。
許せなかった。
イルカにこんな表情をさせるガイが憎らしくて溜まらない。
ガイに対する嫉妬に自我が奪われて行く。
叩き潰すと、それしか頭に無くなった。
イルカがそんな俺に何を思うかなど考えることも出来ず。
気づいた時には遅かった。
アスマの声に驚き振り向けば、イルカが恐怖に顔を引きつらせて俺を見ていた。
あの夢のイルカがフラッシュバックする。俺を嫌悪するイルカ。
それが現実になってしまったのだ。
絶望とともに、一気に意識が暗闇へと落とされた。
もはや『大丈夫』だという言葉は何の役にも立たなかった。
朦朧とした覚醒の狭間にイルカの声を聞いた。
気づけば、シーツの合間から自分の指先が這い出て行こうとしている。
まるで他人のそれを見るようだった。自分の指だと気づくのにしばらく時間がかかった。
俺は何をするつもりなのか。あの夢のように、イルカに手を払い落とされたいのか。
まさかあの夢と同じに、イルカを陵辱しようとでも言うのか。
それだけはするべきでない。
イルカを傷つけてはいけない。
頭の片隅で制止を声がする。それをすれば、俺はきっと辛いだけだと。だがその声はあまりにも小さくて、すぐに聞こえなくなった。
どうせ怖がらせることしか出来ないのなら、せめて傍でそれを見たい。拒絶しかないのなら、いっそのこと抱き込んでその拒絶を体越しに聞きたい。
手は真っ直ぐとイルカへ伸びて行った。
(完)
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