恋の名のもとに(3)





イルカを思うとどうかなりそうだった。
やたらと心拍数があがる。呼吸も乱れる。まるで眩暈のような浮遊感に襲われる。
明かにおかしい自分の体調に不安になり、イルカに相談した。
イルカは一瞬驚いた顔をしたが、次の瞬間にはいつもは快活に上がっている眉尻をへにゃりと下げて言った。
「それは恋ですよ、カカシ先生」
雷に打たれたかのような衝撃が体を走り抜ける。

恋だと。

決して自分とは縁のない言葉だと思っていた。
女を愛で慈しむ自分など想像できなかった。したこともなかった。
だが、イルカならば。

イルカに恋をしているというのなら。

それは達ってしまいそうなほど甘美に響きだった。

けれど、同時に恐怖がこみ上げる。

毎晩のように見ていたイルカの夢が俺のはっきりとした征服欲を物語っていた。

イルカは男なのに。

俺と同じ性を持つ男なのに、俺はイルカを抱きたいと、強く願っている。

男同士での性欲処理は、特に戦場においてそう珍しいことではなかった。光の届かない場所では、男も女も関係がなくなってしまう。
性欲を発散させる体さえあれば、それが男であろうと、犯す対象になり得た。
そう、犯すのだ。
合意なく、一方的に性欲を押し付け、男を屈服させる。
男としての尊厳を踏みにじられる男達をこれまで何度も目にした。
犯されることを諾とする男など、ほとんど居やしない。それを誰もが卑しい行為だと理解している。
だからこそ、男同士の性交は暴力でしかなかった。

俺は、そんな行為をイルカに求めているのか。

己の持つ願望に愕然とする。

イルカはどうするだろうか?そんな卑しい欲を抱いている俺を、イルカは軽蔑しないだろうか。

俺の気持ちを「恋」だと断言するイルカの顔の黒い瞳の中に俺への軽蔑の色がないか探してしまう。
不安に胸が押しつぶされそうだ。
「恋とか、そういうのは、男女の間にしか成立しないんじゃ・・・」
男が男を蹂躙する行為の中に「恋」が存在するところなど俺は見たことがなかった。
口を吐く疑問にイルカが目を見開いた。
イルカはいつもそうだ。誰もが常識として知っていることを俺が知らないと、いつもこういう風に少しだけ驚いた表情を見せる。
そして、一から丁寧に教えてくれる。そういう教師然としたイルカは好ましかった。
だが今日はイルカは驚いた表情を変えない。
いつもと違う胸の痛みに苛まれる。
「やっぱり病気なんじゃ」
僅かな間に様々な考えが交錯する。
やはり、これは「恋」ではない。
男に懸想する現象はこの世に起こり得ない。
胸の疼きは体の変調故ではないか。そもそも、イルカに情欲を抱くこの思考回路がイカれているだけではないか。

憶測でしかないのにその可能性に憎しみが沸く。

「恋」でないなら、これは何だ、と。
胸を焦がす想いをどうして病気呼ばわりされなくてはならない。
「恋」であって欲しい。
この気持ちを卑しいモノにしないで欲しい。

見開いたイルカの瞳に真実を探した。
誰でもない、イルカだけが俺に真実を与える。世の中の常識なんか俺は知らない。あんたの口から出る言葉だけが俺の真実になる。

だから、イルカ、あんたの口で言って。

俺があんたに抱くこの感情は恋だと、その真実を俺にちょうだい。

「性別なんかクソくらえです」

まだ呆然としたまま、瞬きもせずイルカが言い切った。
ああ、と思わず吐き出した息が震える。

「大丈夫です、カカシ先生、大丈夫、大丈夫」

何度もイルカがその言葉を繰り返す。
こみ上げていた恐怖はイルカの声にかき消される。

イルカに恋をすることを、イルカが許してくれた。

感謝にやはり胸が震えた。


一時も離れていたくないのに、久しぶりに七班以外の任務に駆り出された。
国境付近の宿場町でおかしな動きがあるから見て来いと言われ、それだけなら1日で終わると踏んでいたが、着いた宿場町ではまさにゴタゴタの最中で、それを収拾するのに二日。ようやっと里への帰路に着いた時には既にイルカ不足も甚だしく、イルカに会いたいと、それだけが思考を占領していた。
「・・・イルカ」
明け方近く里に戻ることが出来、その足でイルカの住むアパートへと赴いた。
会いたいと思ってはいたけれど、さすがにこの時間ではイルカは寝ているはずだ。案の定、イルカの住むアパートは静かなもので誰一人起きては居なかった。
イルカの住む部屋を見上げても、閉められたカーテンが見えるだけだった。
予想通りだと落胆し、その落胆すら想定していたものだったが、来ずには居られなかった。

あの向こうにイルカが居る。

そう思うだけで、里を離れていた間の焦燥感は薄れる気がした。

本当は、イルカを隠すあのカーテンを払い落とし眠るイルカを直に見たい。イルカを起こし、会いたかったと告げたい。肉付きの良さそうな体を抱きしめ、その肩口に顔を沈めイルカの匂いを嗅ぎたい。
欲望は次々とこみ上げて来る。
自嘲に口角があがった。
イルカに「恋」の名を貰った途端、これまで漠然としか感じていなかった願望は具体的なものに変わった。
それまではただ会いたいと、傍に居て欲しいと、それだけを馬鹿みたいに考えていたのに、今ははっきりイルカを抱きたいと願っている。
任務中、何度イルカの名を口にしたか。
言っても仕様がないはずなのに、イルカイルカとそればかりだった。
「イルカ、また後で」
静かなままの窓を見上げた。
あの時、大丈夫だと言ったイルカの真意を俺は測りかねていた。
俺の恋を知ったイルカは何を思っているだろう。
あの時イルカは笑っていた。
困ったように、俺を見て微笑んだ。イルカのあんな表情を俺は知らない。
大丈夫と言う力強い言葉とは裏腹に、あの日のイルカは何処か儚げで、美しいとさえ思った。
いつもは感情や思考すら惜しみなく伝えてくるイルカの表情を読み取ることは出来なかった。
だから、戸惑ってしまう。
自分の思考すらもてあます現状は歯がゆいばかりだ。
それでも、

イルカが大丈夫と言うなら、大丈夫なのだろう。

恋しい人から得た言葉を胸に、また後で会いに行きますと、呟いた。

 

夕方、七班の任務を終えようやっとイルカに会うことが出来た。
「お疲れ様です」
不思議なことに、イルカはあの日と同じ何処か儚げなままだった。
丁寧に報告書を確認するイルカに呆然と見惚れた。
「特に問題はないですね。結構ですよ」
報告書から顔をあげイルカが俺を見上げてくる。
一瞬、息を呑みそうになった。
この人はいつの間にこんなに綺麗になったのか。
今夜食事に誘おうと、七班の任務中ずっと頭の中でシミュレーションをしていたのだが・・・そんなものは吹き飛んでしまいそうだ。
「カカシ先生?」
薄っすらと頬を染めるイルカを目の当たりにし、心臓が早鐘を打ち始めた。
落ち着け、と叱咤しながらも準備していた誘いの言葉は頭の隅から動こうとしない。
「あの、後ろもつかえてますので・・・」
困ったようなイルカの表情にハっと我に返る。慌てて視線を避けた。こんなイルカに見つめられては緊張して言いたいことも言えなくなってしまう。
「イルカ先生・・・、この後飯でも・・・!」
何とか頭の隅から言葉を引きずりだした。それだけ言うのがやっとで後の言葉は続かない。
イルカは何も言わなかった。顔を逸らしてしまったのでイルカがどんな反応をしているのか確かめることも出来ない。
「駄目ですか?」
沈黙は・・・否定の意味だろうか。不安に思うも、イルカは慌てて言い募ってきた。
「いえいえいえいえいえいえ!全然!!駄目じゃな・・・・!」
いつも通りの声音に嬉しくなって顔を上げた。
今日のイルカは俺の知らない人のようで、落ち着かなかったのだ。
(何だ・・・?)
なのに、イルカの顔を正面から見据えて改めて感じた。
この違和感は何だ。
イルカが綺麗だ。先ほどから同じことばかり繰り返し思ってしまう。
こんな綺麗なイルカは見たことがない。
俺の誘いをイルカは本当に申し訳なさそうに断ってきた。
それは・・・残念ではあるが別に構わなかった。優先させるべきが仕事なのは当たり前だ。
今日が駄目なら明日はどうだろうか?駄目なら次の日でも良い。その次でも、次の次でも、仕事だというなら俺は待つ。
「今シフトがわからなくて」
なのにイルカが笑った。いつもは真っ直ぐ俺を見抜く黒い瞳を逸らし、儚く美しく、次に会う約束すらさせてくれずに笑う。
(イルカ?)
伏せられた睫がイルカの頬に濃い影を落とす。
もう話は終わりだと、その影が通達してくるようで、
「そ、わかりました」
それだけ言うのがやっとだった。

やっぱり、こんなイルカを俺は知らない。

家に帰る気にはなれず待機所に行き誰もいないのを確かめるとソファーに寝転がった。
誘いを断られてしまった。
三日ぶりにイルカと一緒に過ごせると期待していただけに落胆は激しい。
けれど、落胆の原因はそれだけでないのは明らかだ。
あのイルカは何だったのだろうか。
俺から逸らされた瞳に、まるで拒絶されているかのような錯覚を味わった。
ギチと歯の奥が鳴る。
その音に、初めて自分が歯を強くかみ締めていることに気づいた。
・・・何を、俺はそんなに憤っているのか。
憤る理由など何もないではないか。
イルカと今夜飯を食うことが出来なかったのも、仕事のせいだ。
次の約束を取り付けられなかったのも、俺がうまく誘えなかったせいだ。イルカもシフトがわからなかったと言っていた。
断じて拒絶されているわけでは、ない。
(大丈夫)
そう言ったイルカの声を耳の奥で繰り返す。言い聞かせるように何度も何度も。
また、明日会いに行こう。
今度はちゃんと約束を取り付けよう。あんたに会えないのはあまりに寂しい。
(・・・そうか)
己の考えに納得をした。
そうか、俺は寂しいのか。
胸に重く圧し掛かる何かは、イルカが傍に居ない寂しさであり、憤りではない。
ただ、寂しいだけだと、自分に言い含める。
それでも、かみ締める歯を解くことは出来なかった。

待機所に誰か入ってくるのがわかったが、起き上がる気にもならなかった。
「おい、そこどけ。俺の席だ」
「・・・ああ」
なんだ、アスマか。なおさらどうでも良くなりソファーに顔を埋めた。
「どけよ」
そう言われても。
動くのが億劫だ。無視しているとソファーごとひっくり反された。
「・・・何?」
「今日は中忍はどうした?」
「別に」
「答えになってねーよ。おまえがこんなところで殺気立ってやがるからな、用のある奴が入れねーんだとよ。おら、さっさと中忍のとこ行けや」
クイとアスマが顎で入り口を指す。確かに其処には不安げにこちらを伺うのが三人。皆この里に戻って知った顔ばかりの年若い上忍等だった。
「何それ」
殺気立つだと、馬鹿馬鹿しい。その必要が何処にある。
入り口に一瞥をくれるとその上忍等は怯えたように身を竦ませた。
思わず眉を潜めてしまった。
・・・忘れていた。里に戻ってまだ一ヶ月にも満たないというのに、俺は自分が周りからどう思われているのかを失念していたらしい。
あの者達の俺を見る目が、俺の評価を物語っている。

畏怖の対象でしかない上忍。

数週間前まで、あれに囲まれて暮らしていたというのに、どうして俺は今更のようにそれを思い知らされているのか。それが腹立たしいと、このように眉を潜めてしまうのか。
イルカがあまりに臆することなく俺に接してくるから。それに驚いて、目を逸らせなくなって、その優しさが全てになった。
だが、イルカが特異なだけなのだ。
イルカと、何も知らない教え子達が特別なだけだ。
何もする気はないのに、俺は他人をこのように怯えさせてしまう。
そんな自分が情けなかった。
「おい、メンチ切ってんじゃねーよ」
後頭をアスマが叩かれる。
アスマも・・・そういえば、特異だ。
視線をアスマに戻すと、睥睨したように俺を見下ろしていた。
忍として申し分のない力量を持つ男は、幼い頃から顔見知りということも手伝ってか、俺に声をかけてくる数少ない内の一人だった。
「なんだよ」
「別に」
立ち上がり服についた埃を払った。
アスマを見ていると、少しだけ気が晴れた。
そのまま入り口へと向かう。前で屯していた三人は慌てて場所を譲った。
「ごめんね」
そう怯えないでくれと、情けなく思いながら、その場を後にした。


外へ出ると、既に日は落ちきっていた。
月のない夜道は暗い。
俺の家と続くこの道を何度かイルカと歩いた。イルカは話し上手で、とりとめのない話を面白おかしく俺に話して聞かせてくれた。
それに相槌すら満足に打てなかったが、イルカの話を聞くのはとても楽しかった。
今のように夜は暗いのだと、当たり前のことに気づかない程。
たった数日前のことなのに既に思い出になってしまっているような気がした。
会いたい。
先ほど会ったばかりだというのに、一度そう思い始めるとどうしようもなくて足が止まってしまった。
引き返そうかと迷う。
一目でいいから、イルカを見れば落ち着くかもしれない。
だけど、止めた。
先ほどの上忍等の怯えた顔が脳内をチラつく。
イルカがあんな顔をしたことなどない。けれど、今日のイルカは確かに俺の知らない表情しか見せなかった。
その表情の裏に、何が隠されているのかわからない
「・・・イルカ」
任務中と変わらない呟きが口から洩れる。

「イルカ、イルカ」

不安が競りあがってくる。
苦しくて、きつく目を閉じた。瞼の裏には今日の儚げなイルカが浮かぶ。

そんな顔をしないで。俺から目を逸らさないで。

お願いと、祈るように思った。







  

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