夕暮れ、たそがれる(1)



日は落ちかけているというのに、立ち昇る熱気は昼間の余韻を引きずり、蝉の声は相変わらず頭上へ降ってくる。
「暑いですねー・・・」
思わず呟くと、すぐ隣を歩く男が顔だけをこちらへ向けた。
「ね」
それからニコっと笑って相槌を打った。
その顔は実に涼やかだ。顔の半分以上を隠し、なおかつ片方の目も額宛で覆っているというのに汗の一滴もかいていない。
凄い、この男の皮膚呼吸は一体どうなっているんだ。
感心しつつ男の顔を眺めていたら、スイと視線を外された。
「・・・だから、早く帰りましょう?」
男はそう言うと、そのまま足早に歩いていく。慌ててその後を追った。
隣に追いつき肩を並べても、もう男の視線が俺に戻ることはない。
チラリとその横顔を伺うと、男の唯一見える表情である右目は、真向かいを落ちる夕陽に眩しそうに細められている。
その男前な横顔に心臓は途端に騒ぎだした。
(暑いな、チクショー)
手で顔を仰いで汗を冷やす。そうでもしないとこのまま茹ってしまいそうだ。

風呂桶に水を汲み一気に頭から被った。
(やっぱ、シャワーは必要かなー・・・)
体を洗いながら、風呂釜に溜めた水を沸かす。家に着くとすぐにカカシ先生に風呂を勧められた。
お邪魔して早々風呂を借りるのも申し訳ないと一端は遠慮したが、当たり前のようにタオルを渡されればもう風呂に入るしかない。
一日働いて掻いた汗を流せるのはありがたい。しかし、もしかしたら汗くさかったのかもしれないと思うと少しばかりへこむ。
カカシ先生は汗をかかない。女優は顔には汗をかかないというが、同じようなものだろうか。
忍である以上、俺も汗をかかないよう訓練したはずだが、カカシ先生ほど顕著な人は見たことがない。
でも。
(・・・いつもと言うわけじゃないんだよな)
肌を合わせている時は、そうでもない。
汗に湿った肌はひんやりとしているのに熱く、その背に腕を回すと震えるように息を吐く。
熱に浮かされた目は瞬きすら惜しいというように俺ばかり見つめてくる。
「・・・わわわわ!!」
その情景をありありと思い出し、慌ててもう一度水を被った。
このまま考えに没頭していては水風呂でも茹りそうだ。頭を振って髪を濡らす雫と共に不埒な思考をはらった。
改めて、最初に風呂を借りて良かったと思った。
カカシ先生と触れ合えば簡単に体に火がついてしまう。そうなったら最後自分の意志でどうにかできるものではなく、風呂に入りたいなど悠長なことは言ってられなくなる。
備えあれば憂いなし。
初めての時だって後になって多いに悔やんだ。
せめて風呂くらい借りれば良かった。カカシ先生には全然気にならないと言われたが、俺が気になる。
好きな人と抱き合う以上、少しでも綺麗にこしたことはないはずだ。
(・・・今日だって、何があるかわからないし)
実際カカシ先生と顔を合わせるのも一週間ぶりだ。
仕事が終わると待機所に行く、それがカカシ先生と付き合い始めての俺の日課だった。
カカシ先生が居れば一緒に帰るし、居なければそのまま自宅に帰るかもう少し仕事をするかしていた。
大抵、カカシ先生は待機所で俺を待っていてくれ、そうじゃない時は任務が入ってるのだと以前教えてくれた。
その時感じたくすぐったさは、確かに嬉しいという類の感情だったのに、今は思い出すと胸が痛くなる。
嬉しいんだか苦しいんだかわかりやしない。
真摯な眼差しは疑うことを許さない。
それは、俺が・・・カカシ先生の恋情に気付かなかったせいもあるかもしれない。
好意を寄せられていることに気付かず、遠ざけようとした。俺も好きだったからと、別の者への想いを寄せている姿を見ることが出来なかったと、言い訳をしてみても男を傷つけたことには変わりがない。
カカシ先生はあまり口が達者な方ではない。
自分でも言っていたし、俺もそれには賛同する。会話が下手だ。
俺が話してもニコニコと笑うだけで、相槌もあまり期待はできない。俺としては居心地が悪いわけでもないので構わないのだが。
カカシ先生はそれを良しとしていないようだ。
一生懸命伝えてこようとする。口下手なくせに、全てを言おうとする。
あの時のように俺が疑わってしまわないように。勝手に解釈して、離れていかないように。
俺も、それは十分理解しているつもりだ。
男の俺への恋情も、その口下手なところも。

・・・けれど。

互いの想いを打ち明け体を繋げて早二ヶ月、カカシ先生はあまり俺に触れて来ない。

 

「お風呂先にいただきました」
風呂から出ると、カカシ先生は居間でボーっとしていた。
「カカシ先生も入ってらしてください。俺が夕飯の準備しておきますから」
俺を見るとふわりと顔をあげニコリと笑う。
「手伝う?」
夕飯の準備を、にこの言葉はかかるのだろう。夕飯は素麺のつもりなので手伝いは必要ない。
そもそも此処はカカシ先生の家だが、いつの間にか俺の方が詳しかったりする。
「あ、石鹸きれてたので新しいの出しておきました」
台所に行く足を止め振り向くと、男も腰上げた。どうやら風呂に入る気になったようだ。
ノラクラと揺れる背中を見送り、俺も台所に引っ込んだ。
(やっぱ素麺だけじゃ淋しいな)
さっきまでは暑くて食べる気もしなかったが、一端体が冷えると空腹が戻ってくる。
蛇口の上にある窓を開けると既に日は落ちきっていた。入ってくる風が心地良い。
蝉の声もいつのまにか止み、ケラの声と取って代わっていた。蝉に勝るとも劣らない騒がしさだ。
その鳴き声を聞きながら、素麺の他に何を作ろうか考える。
野菜でも適当に湯がこうか。いや、肉が喰いたいかもしれない(俺が)。
肉、肉、と考えながら冷蔵庫の扉に手をかける。
開いた途端、冷えた空気があたりを白くした。カカシ先生の家の冷蔵庫は大きい。
はっきり言って、無駄にデカイ。
(肉はない、か・・・)
空の冷蔵庫にため息が洩れる。決して肉がないだけの落胆ではない、これだけの要領がありながらも何も入っていないことが・・・何とも言えず淋しい。いや、申し訳ない。
この冷蔵庫をカカシ先生が買ったとき、俺もその場に居たのだ。居ただけではない、店員の口車に乗せられうっかり「凄いですね!」みたいなことを言ってしまった。
買ったときは、何故必要のないものを買うのかと吃驚したが、・・・今なら少しわかる。
もともとカカシ先生は物にこだわる性質ではない。その上高給取りなので金にも頓着がない。
高かろうが安かろうがどうでも良いという風な態度だ。
そんなカカシ先生が選んだ冷蔵庫、理由は俺だと気付いたのは男と関係を持つようになってしばらく経ってからだ。
俺がうっかり「凄い」と言ったから、カカシ先生はアレを選んだ。
今更ながら申し訳なくて気が遠くなりそうだ。
せめて使っていればこの申し訳なさも薄れるかもしれないが、眼前に広がるのはまるで廃墟。
つい今まで煩いほどに鳴いていたケラの声も静まる程に寒々し・・・、
「あれ?」
ハタと気付いた。
違う、ケラの声じゃない。あのジーッと響く音を虫だと思っていたが・・・。
慌てて冷蔵庫を閉めた。
少しして、また辺りに音が戻る。
(コレか・・・!)
信じられない気持ちで冷蔵庫を眺めた。この、部屋に充満する音、虫の声なら風情と捉えても良いが、電化製品の稼動音となると話は別だ。
(なんて、うるせえ・・・!)
酷い。これじゃ無駄どころか厄介者じゃないか。
ますますカカシ先生への申し訳なさが募った。


結局夕飯は素麺だけになってしまった。
あの冷蔵庫の活用法は今のところただ一つ、製氷しかない。素麺をそれを最大限活用できる素晴らしいメニューだ。


「イルカ先生は素麺が好きなの?」
食べ終わり、一息ついているとカカシ先生に聞かれた。
「え?!・・・ええ、まあ、麺類はたいがい好きです」
嘘じゃない。俺は麺が好きだ。同僚から『小麦粉番長』と名づけられたこともある。
素麺だって例外じゃない。夏になると一週間に10回くらいは喰ってる気がする。
だが、カカシ先生の質問に答えるこの後ろめたさ。男がまた微笑んでだりしているものだから、正視など出来るわけもなく視線を泳がせた。
「お・・・おいしいですから・・・!」
言った後に、これじゃ子供の返事だよ、と内心で自分に突っ込む。
「へー・・・」
だが、カカシ先生の相槌もどっこいどっこいだった。
しばらく二人して押し黙ってしまう。その間も台所からは絶えず冷蔵庫の鳴き声が聞こえてきた。
カカシ先生はこの音がうるさくないのだろうか。
俺もさっきまでは平気だったが、一度気になりだすともうあの音しか聞こえてこない。
「あの、カカシ先生は・・・!」
顔あげ、そのことをカカシ先生に尋ねようとした。
だが、本当に気になってなかったら・・・!わざわざ気付かせるようなことをするのは憚られる。
途中で言葉を切った俺に、カカシ先生は不思議そうに目を瞬かせた。どうしたの?とでも言いたげに。
目は口ほどに物を言うと聞く。
それはそうかもしれない。カカシ先生は口下手な分、俺をよく見つめる。
何か言いたいときには凝視と言えるほどジっと。

でも、言いたいことが何であるかまでは解らない。

今だって・・・、穏やかに微笑んでいたはずなのに。
急に目を眇めた。まるで痛みを耐えるように。

そしてその顔はひどく男前なのだ。端正な顔なのは重々承知しているし、毎日のように見ているにも関わらず、・・・全然慣れない。
男が何を言いたいか考えなければと思うのに、あの視線を前にすると思考は散漫になってしまう。何も考えられなくなる。
「お茶いれてきますね!」
「・・・ぇ?」
体温が上昇する気配に慌てて腰をあげた。カカシ先生の声が聞こえた気はしたが、続く言葉はない。
それよりも自分の心臓(と冷蔵庫)の音がうるさかった。
台所に引っ込み、すぐに冷蔵庫をあける。冷えた空気が火照った頬に心地良い。
(・・・冷たい麦茶でいいかな)
お茶を淹れると言ったが、やはりこの冷蔵庫がある以上氷を使いたいし・・・、
「イルカ先生」
ふいに後から声をかけられた。
ビクリと肩が揺れる。
「な、なんですかっ・・・?!」
心臓が更にうるさく騒ぎ始める。
火照った頬を見られることが恥ずかしく、振り向かずに麦茶パックを捜す振りをした。
「麦茶、今から淹れるのでちょっと時間かかりますよ。カカシ先生は居間で休んでてくださ・・・」
「そんなの良いから・・・!」
腕を引かれる。その強さにそのまま抱き寄せられるかと思った。
だけど、ただ腕をとられただけだ。
「ごめん」
謝罪の言葉と共にすぐに手は離れていく。
一瞬だけ触れた男の熱が恋しい。
カカシ先生はいつもそうだ。こんな風に・・・あまり俺に触れたがらなくて・・・。
振り向くと、男は困ったように立ち尽くしていた。
(・・・こんなの、俺だって困る)
そっと息を吐いた。
どうして腕を掴まれたぐらいで謝られなければならないのか。
本当はわかっている。
カカシ先生は俺に触れたくないわけじゃない。

多分、触れたいのを・・・我慢しているだけだ。

好き合っているというのに何を遠慮する必要があるというのか、そこらへんがよく理解できない。
「謝らないでください。・・・謝られるようなことはされてません」
言うと、カカシ先生は恥らう仕草で視線を落とした。目の淵が薄っすらと染まっている。
「・・・でも」
「腕ぐらい、好きに掴んでいただいて構いませんから!」
言いながら、カカシ先生の両手をとった。一瞬カカシ先生の体が強張るのがわかったが構うものか。
(一週間も離れてたのに・・・)
会いたくて溜まらなかった。
カカシ先生だってそうじゃないかと思うのに・・・、こんな風に我慢されるのは違うと思う。
「ね?」
両手を握って、精一杯笑った。
怒ってませんよ、嬉しいですよ、とちゃんと伝わるように。
まるでアカデミー生を相手にしているようだ。しかもお遊戯よろしく両手まで繋いでいる。
カカシ先生は何も言わない。それでも、根気良く言葉を待った。
嫌ならこの手を振りほどけば良いだけだ。
それをしないのは、カカシ先生も同じ気持ちだからに決まってると自分を勇気づける。
「あの・・・!」
急に、ガバっと両手を纏めて握られた。いつになく気合の入った声に反射的に背筋が伸びる。
「イルカ先生、今日は・・・その、この後予定がなかったら・・・」
だが、勢いがあったのは最初の一言までだった。すぐに視線が泳ぎはじめ、声はシドロモドロになっていく。
しかもその内容がちょっと意味不明だ。一週間ぶりに会って、風呂に入って飯も食った恋人にこの後の予定を聞くなんて今更じゃないか。
「ありません」
それでも、期待に鼓動はどうしようもなく早まっていく。

カカシ先生がまともに誘ってくれるかもしれない。

いつも我慢して我慢して我慢していきなりぶち切れ俺を抱くのだ。
普段は指一本触れないくせに、急に抱きしめてきたりするから正直ビビる。
驚きに強張る体では、・・・まあ実際気持ち良いどころではないのが現状だった。
自分の快感を追うよりも、ただカカシ先生についていくのが精一杯だ。それすら、途中で意識を飛ばしままならなかったりする。
でも、カカシ先生に抱かれるのは嬉しい。
痛みも快楽もどうでも良い。
カカシ先生が求めてくれるその事実が、何よりも嬉しい。

「イルカ先生・・・、あの泊まっていきませんか?ここからだとアカデミーも近いし・・・。着替えなら、前にイルカ先生が置いていったのがあるので・・・」
「・・・・」
・・・あまりに拙い誘いに吃驚して返事を忘れてしまった。
(もちろん泊まっていくつもりでしたとも・・・!!)
声には出せず胸中で叫んだ。
しかし、返事をしなかったのが悪かったらしい。
カカシ先生が慌てて更に言い募ったのだ。
「変な意味じゃないんです・・・!ただ、イルカ先生ともっと一緒に居たくて・・・。もちろん、手は出しません。変なことは一切しないと約束しますから・・・!」
「え?」
両手をギューギュー握り締められる。
「お願い」
握り締められた両手に額を合わせられる。
なんて懇願の仕方だ。
(・・・変なことって何だよ)
そんなこと約束すんじゃねーよ。
出来ることなら晒されたツムジに拳骨を落としてしまいたい。
「・・・は、い」
それでも、一生懸命な誘いを前に無粋な真似はできるわけがなく。何より俺も盛大に照れてしまったので、頷くことがようやっとだった。




 

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