夕暮れ、たそがれる(2)



寝返りを打つと、斜め上にカカシ先生の背中が見えた。
(・・・ほんとに寝てる)
耳を澄ませば僅かに聞こえる男の規則的な寝息に小さく息を吐いた。
拍子抜けしたような安心したような。
まあ両方だろうな。
俺としては「来るのなら来い!」の心境だったが、かといって自分から誘うことは出来なかった。
カカシ先生が「約束する」と言った時点で、その手のアプローチがほぼ望めないだろうとわかっていたはずだ。
あの後、麦茶を沸かしながら洗物をしている時も歯を磨いている時も、並んで麦茶を飲んでる時も、カカシ先生は指一本触れてはこなかった。
イチャパラを読む振りをしながら、時折視線を俺に向ける。
ありありと感じる気配に鼓動はたやすく跳ね上がった。
一度向けられた視線はすぐに外されることはなく、まるで縫いけられたかのように俺の背ばかりを射抜く。
何か言いたいことがあるのではないか。
そう尋ねようと振り向くと、カカシ先生ははにかむように笑った。
咲きほころぶ花の如き美しさに目は奪われ、言いたいことは喉の奥から出てこない。

我慢をしているのではないか、なんて。

柔らかい微笑の前に言えるわけがなかった。
俺は自惚れているだけかもしれない。
気恥ずかしさに頬に血が集まる。
見つめられているからと言って、何もそういった意味ではないかもしれない。俺が勝手に意識しているだけで・・・。
落ち込み半分に項垂れながら、それでも、と思いなおす。
ただの自意識過剰なら、良い。
何もカカシ先生だっていつもいつもそういうことばかり考えてるわけではなく、ただ純粋に好意を露にしてくれてるだけだ。
触れずとも、側に居るだけで満足してくれる。
淡白な性質でその実、性行為自体に激しい欲求を持っているわけではない。
本当に、我慢なんてしていない。
そう思うと少し寂しいが、それを大きく凌駕する安堵を感じたのも確かだ。
どうもカカシ先生は自分の希望を押さえ込もうとする癖があるようだ。
いや、もしかしたら何が欲しいかもわかっていないのではないか。俺を前にし、たまに途方に暮れたような顔をすることがある。
不思議だった。
忍としての才は申し分ない。伝え聞く男の功績にどれほどの死線を潜り抜けてきたか知る。その上で五体満足なのだ、運も悪くないだろう。
容姿も良い。髪の一本、爪の一欠けらとっても、隙がないほどに整っている。
鍛え抜かれた四肢と深く落ち着いた声。
男が里に戻り数ヶ月、遠巻きにではあるが皆に慕われているのもわかった。
傲慢な素振りは少しも見せない。穏やかな佇まいに、皆大きな信頼と更に親しみを持ちはじめていた。
そんな男は・・・望みさえすれば、きっと何をも手に入れることが出来るだろう。
だが、男はそれをしない。
この素っ気無い部屋に住み、日々の任務を淡々とこなし、ただ俺を見つめるだけだった。
あまりの慎ましさに泣けてくる。
俺に出来ることならなんでもする。
(だから・・・)

一度は消えた男の視線がまた戻ってくるのを頬に感じた。

(そんなに風に見つめないで欲しい)

辛そうに眉を寄せるその理由がわからなかった。
カカシ先生と体を重ねる行為を俺は一度だって拒んだことはないのに、このように躊躇われるのは心外だ。
(知らないうちにヘマを仕出かしたか・・・?)
男を躊躇わせるような何かを俺をしたのだろうか?
何時?何処で?何を?
問いただしたい衝動に駆られる。
しかし、それを出来ないのは、・・・その実俺は安堵しているからだ。
体を求められないことに。
先ほど感じた安堵は、カカシ先生が満足しているのなら、などという殊勝なものではなく、我が身可愛さの安堵だった。
あの行為ははっきり言って・・・辛い。体がキツイというのもあるが、それ以上に恥ずかしい。
夜中に突然思い出し悲鳴をあげたこと数回。アカデミーの職員室で突如いたたまれなくなって無駄に給湯室に行ったり来たりなんかする。
バタバタうるせえと同僚に小突かれ、落ち着きが無いと上司には小言を言われた。
行為後の恥ずかしさは数日続く。
日常生活にはおおいに支障をきたした。
決して、その行為自体が嫌なわけではないのだが・・・、しなくて良いなら、それで良し。
これが正直なところだった。


寝入った背中から目を逸らし、天井を向きなおった。

消灯する際もひと悶着あった。
変なことはしないと言った男は、寝室に寝袋を用意していた。
この家にこんなものがあったのかと尋ねれば、今回の任務で使ったのだとサラリと答える。
誰が寝るんだ、ムっとしたのは、カカシ先生がそそくさと寝袋に足を突っ込んだからだ。
(任務を終えたばかりのくせに・・・!)
一週間の里外任務に体は疲れているだろう。横にベッドがあるというのに、わざわざ寝袋なんかで寝ようとするなよ。
『イルカ先生はベッドを使ってくださいね』
微笑みながら言うもんだから、さすがに抵抗した。この状況で『じゃあ』とベッドを使えるほど俺は図太くない。
そもそも俺がこの家に泊まる理由とは何だ?
別々に寝るだけならいざ知らず、寝袋だと?疲れてるだろうのに、わざわざ床に寝るなんて・・・、俺は居ない方が良いじゃないか。
疲れた体を柔らかい布団で休めることすら俺はさせてやれない。
帰ろうと思った。
俺が居ては邪魔なだけだ。
申し訳ないと帰る旨を告げれば、しばらくカカシ先生は微動だにしなかった。そして言った。
『俺は、居間で寝ますから・・・!』
的外れな言葉は、けれど引き止めるには十分な効力があった。
ここで帰ってしまえばこの人は傷つくだろうことはありありとわかった。
だったら、一緒に寝ませんか?恥ずかしさを堪え、カカシ先生を誘った。そういう誘いだととられても良い。今はこの男を寝袋から遠ざけることが重要だ。
しかし、鈍い男は即座に否定した。
『そんなこと出来ません』
普段にはない断固とした物言いが悲しい。
『俺が寝袋で寝ます。カカシ先生がベッドを使ってください。それが駄目なら帰ります』
なので、・・・俺も思わず喧嘩ごしになってしまったのだ。カカシ先生を血の気の引いた顔でそれを拒んだ。何度も首を横にふる。
可哀想だと思ったが、ここでひくわけにはいかない。
『帰ります』『待ってください』数度その押し問答を繰り返し、最後俺が『寝袋が大好きなんです』とやけくそで叫ぶとようやく了承してくれた。
俺が寝袋に、カカシ先生はベッドに。
しばらくカカシ先生は戸惑っていたようだが、俺が背を向けあからさまな寝息をたてると、諦めたように電気を消した。

(勝手だよなー・・・)
ぼんやり天井の木目を眺めた。
抱かれる行為には抵抗がある、それが本音のくせに、いざ何もないとなると、これで良いのかと不満が湧く。
違う、不安か。
俺が居ることでカカシ先生の負担になっているのではないか。
目を閉じると、外からは夏虫の囀り、そして台所からは離れているにも関わらず冷蔵庫の音がはっきりと聞こえた。

 

(居ない)
目を覚ますと俺は床ではなくベッドの上に居た。ご丁寧に寝袋ごと。そしてカカシ先生の姿は見当たらない。
「あちーよ」
寝袋のチャックは首元まで引き上げられ、さながら中は蒸し風呂状態だ。
しかも、寝るときには開いていたはずの窓も閉められている。沈む熱気に額は汗ばんでいた。
寝袋から出て、窓を開ける。吹き込む風は朝の爽やかさで火照った体に心地良い。
「カカシ先生?」
呼んでも返事はない。気配すら感じなかった。
パタパタと手で顔を仰ぎながら居間に行くと、ちゃぶ台の上に白い短冊四方の紙がおいてあるのがわかった。
床張りの居間はちゃぶ台と座布団が二枚あるだけだ。まるで空き家にそれだけ持ち込んだような殺風景さだった。
(台所や寝室はそれなりなんだけどな・・・)
白い紙を横目に、戸を開き、雨戸をあける。差し込む光に一瞬目が奪われる。
狭くは無いが広くもない庭はざっと検分するところ30坪程度か。
草が好き勝手に生えはびこっている。虫が多いわけだ。早速腕に小さな痛みを感じた。むき出しの腕に蚊が吸い付いていた。
それをはらうと、自分が無意識に腹を掻いていたことに気付いた。
(あちこち刺されてるなあ)
腹にはいくつか紅い斑点が見えた。腕には刺されたばかりの場所の他にも数箇所同じように紅くなっている。
寝袋のチャックが首まで閉められていたのはこのせいかもしれない。痒みに寝言でも呟いていたのか。
親切な男は自分なりに考え対処してくれたのだろう。
・・・あの蒸し風呂状態を考えると他にも対処方法(蚊取り線香を焚く、など)があったとも思うが。
俺のために、と思えば何も文句を言うことはない。
戸は開けたままで居間を振り返った。
ちゃぶ台の上の紙を拾い上げると、予想通りのことが書かれていた。

――― 任務が入ったので先にでます。ゆっくりしていってください。カカシ

几帳面な文字が男の性格を現しているようで、知らずに顔の筋肉がへらっと緩んだ。
だが、その笑いもすぐに引っ込む。
(帰ってきたばかりなのに)
ちょっと働きすぎじゃないかと思う。
俺がどうこうできる問題ではないが、それでもムカッ腹は立つものだ。
ちゃぶ台の上に紙を置き、洗面所に向かった。
顔を洗い、歯を磨き、着替え、一通りの身支度を整えるとまた居間に戻る。置手紙は吹き込む風に少しだけ位置をずらしちゃぶ台の上に乗っていた。
ちゃぶ台の前に座り、鞄から筆記用具を取り出す。
「ゆっくりしていきたいのはやまやまですが」
声に出しながら、ボールペンを握る。
カカシ先生の丁寧な文の横にアカデミーへ出勤する旨を書き足した。紙は特殊な感熱紙のようで少し書きづらい。
此処からの方がアカデミーに近いと言ったのは、カカシ先生じゃないのか。俺が今日出勤日であることは承知していただろうのに。
もう一文付け足すことにする。
「また今夜お邪魔します、イールーカー、っとくらあ!」
これで良し。
カカシ先生がこれを見ても見なくてもどっちでも良いと思った。
元より任務が今日中に終わるという確証もない。それに、俺には帰宅前に待機所を覗くという日課がある。
ただ、俺が約束をしたかっただけだ。
・・・それが一方的ではあっても。
開けたままの戸から風が吹き込んでくる。手紙は一瞬で風に浚われちゃぶ台の下に落ちた。
それを拾い上げようとし、ふと、手が止まる。
(・・・なんだ?)
裏に何か書かれてある。
思わず笑ってしまった。
「広告?」
変な紙質だと思ったら広告の裏だったのか。
この家には紙もないのか、もしくはカカシ先生も急な召集に焦っていたのか・・・、だが笑っていられたのもそれまでだった。

 

心臓が物凄い勢いで早鐘を打っている。
じんわりと背中に汗が滲むのを感じながらアカデミーへの道を急いだ。
どこからか国営放送のラジオ体操が聞こえてくる。アカデミーに出勤するにはまだ早い時間帯だ。
けれど、まるでそこから逃げ出すように足を動かした。
(八万・・・)
ともすれば浮かんでくる数字にいちいち心臓はビクついた。
手にも力が入ったのか、クシャと紙が潰れる音がした。
「ぁ・・・」
声が洩れる。うっかり持ってきてしまった。
拳をひろげると先ほどまでちゃぶ台に置いてあった紙がクシャクシャに形を変えていた。
急かしているはずの足が止まる。見たくないのに・・・視界に入ってくる文字は容赦ない。
これは広告などではなかった。
(恐ろしい)
「八万なんて・・・」
電気料の明細票だった。
最初その数字を見た時はよく意味がわからなかった。あるはずのない数字だったからだ。
動力量のことだろうか?もしくは一桁見間違えたか?
一度明細票から目を上げ、軽く目を瞬かせ、再度目を落とす。
一・十・百・千・万・・・、やはり0の数は変わらない。しかも金の単位の円が後についている。
これが電気代・・・?
ぼんやりと思った。その次の瞬間には血の気が引いた。
一体どれだけ電気を使ってんだ?!
一般家庭の電気代が8万・・・ありえない。貧乏な俺には到底考えられない数字だった。
カカシ先生だって・・・あの住まいは俺の家とどっこいどっこいじゃないか。そりゃ俺の家はアパートだし狭いし、ついでに俺は中忍だし・・・。
だがカカシ先生の家だって、一戸建てというだけでその内容は侘しいものだ。俺の家の10倍以上の電気を使う理由がない。
最低限の電化製品しかなくて・・・。
明細票には、先月の電気量の領収もついていた。やはり同じような金額だ。
カカシ先生の家の明細票じゃないのか?
だが、書かれてある住所は確かにカカシ先生の家のものだ。期待は一瞬だった。
ぼられてるのかもしれない。
そう思いもした。
すでに先月分は徴収されている。口座引き落としの手続きをしたのは俺だ。電気料は毎月決まった日に容赦なく引き落とされる手筈となっている。
電気料金の明細など、あの金に無頓着な・・・いや忙しい男がすぐに見るのは考えにくい。
少しばかりチョロまかされたとして、気付いても後の祭りだ。今更ながら引き落としにしたことが悔やまれる。
先月も同じ、・・・もしかしたら里に戻ってずっとこの電気代を払っていたのか。
多分そうだろう。貧乏が染み付いた俺の頭は瞬時に年間の数字をはじき出す。

\10,000,000 也

眩暈がした。
なんて無駄なんだ。
いや、もしくは本当にこれだけの電気をつかっているのか・・・?
でも、何に?
カカシ先生の家のことはよく知っているつもりだ。どこかに隠れ家でもあるのか?それと一緒に徴収を・・・。
駄目だ、電気メーターの番号は一つのみ。ここのだ。
あらゆる憶測が脳内をめぐる。
その時、音が聞こえた。
いや、ずっと聞こえていたのだが、改めて気にしてはいなかったというべきか・・・。
その音が、今更ながら鮮明に耳に響く。
ジーっヴィーっとつかぬ、虫の鳴き声のような稼動音。

冷蔵庫・・・!!!

はじかれるように台所を振り返った。そこには、圧倒的な存在感で稼動し熱を発する業務用の冷蔵庫があった。
原因はこれなのは明らかだった。
そしてこれを購入したきっかけは・・・俺なのだ。


一刻も早く話しをつけなければ。
焦りとは裏腹に、どんどんと気は重たくなってくる。
一日そればかり考えていた気がする。唯一授業中だけは考えずに居られたが、夏季休暇に入っているアカデミーは補修授業対策しかないため午前中で終わってしまう。
午後はひたすら書類整理をする振りをしながら冷蔵庫のことばかり考えていた。
(製氷にしか使ってないのに・・・)
それすら出番がそうそうあるわけでもない。
あの冷蔵庫を購入してすでに三ヶ月がたっている。弾きだされた三ヵ月分の電気代に打ちのめされた。
カカシ先生はこれをおかしいとは思わなかったのか。
(・・・気付いてなさそうだ!)
即座に肯定した。カカシ先生の給料がどれほどか知らないが・・・この金額を毎月払えるくらいには稼いでいるのかもしれないが・・・。
カカシ先生・・・!
心中で叫んだ。
でも、と思う。
ここは木の葉なのだ。多くの忍を抱え、上忍以上も数知れず。皆に高額な給料を支払えるほどに里は潤ってはいない。
一度九尾に壊滅状態にまで追い込まれたこの里は、10年以上たってようやく復興の努力の甲斐もあり、経済面でも躍進を始めたばかりだというのに・・・!
どこにそんな金がある?
内勤の長い俺には漠然と里の経済状況がわかる。木の葉は決してバブリーではない。
これじゃあまるで電気代を払うために働いているようなもんじゃないか?
机に突っ伏してしまった。ガサガサと書類が散る音がしたが、拾う気力がわかない。
あんなに働いて、文句一つ言わず、何も求めず・・・。
(なんで気付かなかったんだ・・・)
そこまで気がまわらなかった。最初はカカシ先生の生活水準をあげることだけに必死だった。好きだと、互いに確かめあってからは・・・なんかそれどころじゃなかったし・・・。
「バカめ!!」
「ぅお!!」
口を吐いた自分への悪態に同僚が驚いた声をあげる。
「どうした、イルカ?頭沸いたか?」
隣に座る男は机に向きながらも、ダレた様子でアイスを食っていた。
「・・・なあ、おまえん家の電気代いくら?それと、仕事しながらアイス喰うなよ」
「俺んとこ共同だしなー。電気代も全部家賃に含まれてるからよく知らね。おまえも喰うか?これ喰って頭冷やせ」
「その家賃聞いても良い?」
「安いぜ、1万5千。風呂トイレ台所全部共有だけど」
1.5万・・・。
いじましい数字ではあるが、こちらの方が俺の許容範囲だ。改めてこいつは仲間だと思った。
「何だよ、引越しでもするのか?」
「いや・・・。それより、俺もアイスくれよ」
手を出すと、半分こに出来るソーダーバーを割ってくれた。
「・・・そっちの大きいほうが良い」
半分以上喰われている方を手渡される。ケチな奴だ。文句をいいつつも、盃を交わす儀式さながら喰いかけのそれにかじり付いた。
ちょうど心地良い風が吹き込んでくる。
木々のざわめきとアイスの冷たさに少しばかり興奮した頭も冷やされていく。
(・・・最近はあまり驚くこともなかったのにな)
最初はあまりの浮世離れっぷりに度肝を抜かれたものだが、今はそんなこともない。
当たり前か、男は上忍なのだ。
記憶力もよければ応用、適応力も高い、・・・はずだ。
明細の裏に書かれた置手紙。
もしかして、伝えたいことはその文の内容なのではなく、裏の電気代ではないのか?
(そんな回りくどいこと・・・)
カカシ先生がするとは思えなかった。
しかし、行き着いた考えは容赦なく胸に沈んだ。



 

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