夕暮れ、たそがれる(4)
たった一言で穏やかな景色が覆される。
いくらそんなつもりはなかったと言おうと俺から出た言葉であることは事実だった。
言い訳の言葉は戸惑いにかき乱され要領を得ない。
否定を叫んでも押さえつける手が緩むことはなかった。
あれは取り返しのつかない言葉だったのだと気付いたところで今更何になる。
俺は見下ろす男は既に傷ついていた。
「……やめ……ッ!」
一度退いてしまった体はバランスを失い簡単に突き倒された。慌てて体勢を整えようと上体を起こすも、倒れた葦の群れは厚く、存外の柔らかさに力は吸収されバランスを崩すだけだった。
「怖いの?」
見下ろす顔は影に隠されている。その背後に空が見えた。
「怖くありません! 怖くない、けど……ッ」
反射的に否定し、必死で首を振っていた。
怖い。
体が竦みあがっているのがわかる。
冴え冴えとした声は低く、体の奥を殴られたかのような圧迫感を感じる。背中を流れる汗は先ほどまでの温いものとは違い、酷く冷たかった。
「けど、何? じゃあ、なんで逃げるの?」
押さえつけているのとは違うもう片方の手が伸びてくる。反射的に体が大きく震えた。いくら違うと声を張っても、態度が極度の緊張を物語っている。カカシ先生が押さえつける肩を緩く撫でながら「ほら」と自嘲的に笑う。
怯えてしまう自分への不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。
(……まただ)
いつか見た景色が蘇るようだ。夕暮れを背に男は怒っていた。悲しんでいた。あの時はもう傷つけたくないと後悔したのに、たったの二ヶ月やそこらで俺は同じことを繰り返して……。
カカシ先生の指が肩から離れる。
少しだけ重い空気が散った気がした。見上げると、先ほどよりも高い位置に男の顔が見えた。
「……ずっと、怖かった?」
どこかぼんやりとした口調でカカシ先生は言った。
「へ……?」
ずっと……?
「どういう意味ですか…?」
言いながら、スっと背筋が冷えた。何かを……男が何かとんでもない思い違いをしているのではと気付いた。
「そんなことありません! 怖かったことなんか一度だって…!」
「だったらなんで別れるなんて言うんだ!」
慌てて否定するも、急に強くなった男の口調に言葉はかき消される。
「それは…違うんです! 俺だってなんであんな……ッ!」
自分でも、何であんなことを言ったのかわからないんだ。それを口で説明することなど出来ない。
肘をつかって上体を起こそうとした。
情けない不明瞭な言い訳を口にしながら。
「本当に、わからないんです。カカシ先生が好きなのに……」
体勢は立て直される前にまた押し戻された。
先程よりも強く、明確な意思を持って指が伸びてくる。
「……ッ!」
顎をきつく掴まれ上を向かされる。そのまま唇を合わせられた。
思わず眉を潜めてしまう。こんなことを今ここでする意味がわからなかった。言い訳を……謝罪をさせて欲しいのに。
「…ッカシせんせ……!」
胸を押し返し名前を呼ぶ。とにかく話を聞いて欲しい。
けれど、僅かに開いた唇に男の舌が割って入ってきた。
(何を……?)
信じられない気持ちで荒い口付けを受ける。
これまでキスをしたのも数え切れるほど、それも全て情事の最中だったのではなかったか。さすがにマズイかもしれない、ジワリとまた汗が滲む。押しのけようと突っ張った手首は捕られ、なんなく頭上へと縫い付けられた。男との力の差は知っているつもりだ。それでも、驚いてしまう。その差はこれほどのものなのかと。僅かな動きも許してもらえない。
「本当に好きなの?」
唇を解放されても、息つく間もなく尋ねられる。必死で頷いた。
男の声は平淡だった。見上げる空は淡く闇がかり、紅い光は僅かにも見えない。夕刻が終わる。そうなると、それまで見えなかったものがまた形を露にしはじめる。
「本当に怖くないの?」
色を失った顔が俺を見下ろしている。
(……怖がらせてるのは誰だよ)
泣きそうだと思った。
噛み締めているはずの歯の根が鳴る。それを押さえ込むようにさらに噛み締めた。
怖くない。そう自分に言い聞かせる。俺を押さえつけているのはカカシ先生だ。俺の好きな人だ。何を怖がる必要があるのか。
それでも、本能が竦みあがっている。現に圧倒的な力を前に怯えている。この体たらくを男に見せておいて、今更何を信じろというのか。上辺だけの否定は通じない。そもそも「別れたい」など自分でも信じがたい言葉を吐いたのは俺だ。
首を振った。俺はこの男が怖い。
もはや頷くことはできなかった。それでも男は俺の反応を待っている。本音を言うしかなかった。
「怖いです。でもっ……、怖くても、良いです」
(怖いよ。怖いに決まってんだろ)
なんでそんなに必死なんだよ。俺は中忍で、それに相応しい力しかもってなくて、あんたは上忍なんだよ。そこにある差をわかって欲しい。そして、その差を思い知らされても募る気持ちがあることをわかって欲しい。
急に、カカシ先生が顔を歪めた。辛そうに双眸を揺らす。
そんな顔を見せるくせに、慰めることもさせてくれない。動かせない両腕が歯痒かった。
「じゃあ逃げないでよ」
吐き捨てられる言葉をどこか呆然と聞いた。また唇が降りてくる。先程とは違い押し付けるだけの口付けだ。
一度離れては俺の顔を伺い、また触れてくる。それを何度も繰り返す。
(ここで抱かれろと……)
これはそういう意味だろうか?
その言葉を証明してみせろと、そう言っているのだろうか。
だとしたら、俺のとるべき道は一つじゃないか。
「手…外してください。逃げませんから」
こんな押さえ込まれるような体勢は嫌だ。そんな必死なくせに、俺に逃げ道用意してどうするんだ。これじゃあ逃げたくても逃げられないのだと、あんた自分に言ってるようなもんじゃないか。それはちょっと自虐的すぎやしないか。
だけど、
「そんなの出来ない」
カカシ先生は首を振った。手首を押さえ込む力もますます強くなってしまう。
「ごめんね」
一瞬だけ泣きそうな顔をして、俺の首筋に顔を埋めた。
体を反転させられる。
触れるまではいつも躊躇うくせに、一度触れてしまえば男の手は荒々しく体中を撫で回した。
(…ツ……ッ!)
うなじに歯を当てられた。その痛みに呻きそうになるのを必死で堪えた。さすがに外でこんな声を洩らすわけにはいかない。噛まれた箇所を吸い上げられる。痺れるような感覚に瞼を閉じた。
すぐに腰を引っ張られた。
あ、と思う間もなく焦る手つきが滑り込んでくる。
ソコを握りこまれ、背が仰け反った。
(……あ……あ……)
ゾワリとした感覚が背を這う。これから何をされるのか知っている。思い出した感覚にカっと体温があがるのがわかった。緩くしごかれ声をあげそうになる。思わず手を口元にやっていた。
結局手首は一まとめに縛られてしまった。
その結び目を噛んで声を殺す。
「何してるの」
声と同時に、両手首を強引に撥ね退けられた。結び目を強く噛んでいるから顔も同じ方向に引っ張られる。
「そんなんで解けるとでも思ってるの」
違うのに。
別に結び目を歯で食いちぎろうとしたわけじゃない。そこまで動物的じゃねえよ。ああもう悲しいなあ。なんでこの人はこうも俺の行動を悪い方悪い方へ捉えるのか。
「逃げないって言ったくせに」
「違…ッ! …って、声が……ッ」
押えてないと声が洩れてしまう。こんな場所で喘ぐわけにはいかないことぐらいわかって欲しい。断続的な痺れが腰から湧き上がってくる。
「出せば良いじゃない」
背後から圧し掛かる男が声を荒げることなく紡ぐ。先程と変わらない平淡な声で。
「え……?」
「なんでそんな風に押さえ込むの? 嫌なら、嫌だって言えばいいじゃない」
「そんなことを…ッ、……ッ!」
本気で思っているのか。
続く言葉は急な衝撃に遮られる。男の雄を突き入れられたのだ。
キツイ。
ロクに慣らされないままの挿入に容赦なく後は軋んだ。
震える息を吐けば、さらに奥へと熱い猛りを押し込まれる。抱かれるのが初めてというわけではないのに、痛みに呻いてしまいそうだった。
いつまでたっても硬い自分の体が憎らしい。
苦しそうな息遣いが聞こえた。振り向こうとしたが、すぐに後頭部を押さえつけられ額が乾いた土に伏す。後から抱かれるのは初めてだった。
一段と腰を押し付けられる。
「や……ッ!」
衝撃に背が反る。悲鳴じみた声をあげそうになり、咄嗟に唇を噛んだ。
言葉を吐くことが酷く躊躇われる。何か言ってしまえばそれは全て男を傷つけてしまいそうな気がする。
皮肉なことに、その緊張がますます体を強張らせていった。
声を出せと男は言った。押さえ込まずに、嫌だと言えば良いと。
……ずっと、そんな風に思っていたのだろうか。
だから、いつも俺に触れることを躊躇っていたのか。
先程押さえつけられた際に口に少し土が入った。舌でそれを追いやりながらなんとか顔を横にずらせた。
(別れたくねーなー)
痛みに頭が朦朧としているのかもしれない。ぼんやりと思った。
(なんであんなこと言ったんだろうな)
カカシ先生の綺麗な顔を見ていたら、急に居た堪れなくなった。胸が痛かったんだ。その痛みから逃げ出したくなった。
逃げた方が辛いのなんか考えればすぐに解りそうなものなのに、あの瞬間は痛みだけが全てだった。
こんなのは知らなかった。変だとすら思う。
だって、片想いだったあの頃よりも、相手の気持ちを捧げられる今の方が痛い。
さすがに居ないか。
まだ地に伏したまま向こうの川べりへ顔を向けた。
葦に隠されはっきりとは見えないが、先程まで釣り人が居た場所には人影はなかった。
(気付かれちゃいないよな……?)
突風のような情交を終え、急に羞恥が戻ってきた。
釣り人がいつ去ったかはわからないが、カカシ先生に会った時点で既に日は沈みかけていた。向こう岸からは目を凝らしでもしない限り何をしているかなどわからないだろう。無理やりにでもそう結論づけることにする。今は恥ずかしさに耽っている場合ではない。
まだカカシ先生は後ろから覆いかぶさっていた。
一度吐精し引き抜いてはくれたが、息は荒いままだ。
「……カ、カシ、せんせ…」
呼吸が整わないのは俺も同じだった。ゼエゼエとみっともない息の合間に名前を呼べば、ようやく背にかかる体重が退いた。
「……あんなこと言ってごめんなさい」
言っては見たが、自分の耳にもその言葉は取り繕っているだけのように聞こえた。申し訳ないと思う気持ちに嘘はないはずなのに、どうも言葉が上滑りしている。
さっきからずっとそんな気がしていた。
(独り言みたいなんだよな)
不自由な両手をついて上体を起こした。腰にはまだ力が入らず、おかしな方向に体が揺らぐ。横倒しになる前にカカシ先生の片手に支えられる。その手を借りなんとか座ることは出来た。
礼を言おうと口を開くも、その相手が視界に入ってこない。
さっきから会話が出来ていないのは、カカシ先生の姿が見えないせいかもしれない。
「カカシ先生」
「何も言わないで。今は聞くのが怖い」
弱気に聞こえる発言だが声は低く張り詰めたままだ。
ぼんやりと男の言葉を受ける。
頷くと、ようやっと前へ回ってくれた。俯いた顔は影に覆われ表情を見せない。縛られたままの両手首を差し出すと、オズオズと指が伸びてきた。指は少しだけ躊躇い、丁寧な仕草で拘束を解く。いつの間にか風が出ていた。湿った空気が眼前にある灰色の髪を揺らして行く。
何も言うな、なんて。
さっきとは正反対な言葉だ。
しかし、それは俺の願望でもある気がした。
俺だってさっきから何か言うのが怖かった。このまま何も喋らずに有耶無耶にしてしまい。別れたいなんて言葉はなかったことにして欲しいのだ。カカシ先生がこの言葉を本気で受け止め、あげくに頷かれでもしたら、そうさせる切欠を与えてしまったのが自分自身だとしても、やるせなくなる。というか、泣きたくなる。出来るなら、『冗談ですよ』と笑って誤魔化したくて……。
でも、カカシ先生の指が震えている。
(無かったことになど、出来るものか)
痛烈に悔いた。
目の前に傷ついた男が居る。俺が傷つけたのだ。
本意ではなかった。互いに、こんな傷は望んではいない。
だからといって。
例え、その傷から目を背けても、痛みが消えることはないだろう。
流れる血に気付かない振りをしたとして、どうしてその痛みまで無かったことにできるだろうか。
「冷蔵庫が、あんまり大きいから……」
思いつく単語が要領を得ないまま口を吐く。
「あんな大きい冷蔵庫、邪魔だし、うるさいし、電気代は嵩張るばかりで……そんなの持ってる意味はないはずです。それにカカシ先生は気付いていないのが…もう……」
「……イルカ先生?」
自分でも何を言っているのかわからなかった。カカシ先生が訝し気に視線をあげる。いきなり冷蔵庫の話なんかされても意味がわからないだろう。
けれど、きっかけはコレなのだ。コレに気付かされた。
「何…言ってるかわからないし、何も聞きたくないって言ってるじゃない。止めてよ」
制止の言葉には首を振った。
「カカシ先生の家の電気代が異常に高いんです。原因はあの冷蔵庫です。カカシ先生、そのことを知らないでしょう?」
「……ええ」
短くカカシ先生は答えるが、それ以上は踏み込んで来ようとしない。ジッと訝しむ目のまま俺の出方を伺っている。
「カカシ先生は使いもしない冷蔵庫に毎月高額支払ってるんです。バカらしいじゃありませんか。ほんとにバカらしくて…、……俺もそうじゃないかって思ったんです。カカシ先生は俺と一緒に居て何か良いことあるのかって、考えたら……わからなくなって。俺も、あの冷蔵庫みたいなもんなのかなあとか、邪魔なだけじゃないのかとか……。すいません、別れたいなんてあんなの本心じゃない。ヤケになってたのかもしれません」
言葉にすると、より惨めさが増す気がした。何を小さなことでグチグチと……自分の卑屈さを改めて思い知らされる。そうして思うことと言えば、やはり自分はこの男に相応しくないということだった。
「あんた何言ってるの?」
訝しげだったカカシ先生の瞳が徐々に開かれる。
「冷蔵庫が、何? 厄介者だとか、そんなのなんで俺が思うわけ?」
「だって」
「良いも悪いも俺があんたを離したくないんじゃない。今だって」
カカシ先生の視線が俺の手首に向けられる。自由になったばかりの手首にはうっすらと拘束の痕が走っている。それを見つけ、カカシ先生はギュっと眉根を寄せた。
「縛り付けてるのは俺の方だ」
そんな顔を見せるから、俺はますます辛くなってしまう。
そこまで言ってくれるのに、どうして普段は触れようとしないのか。あの恥じらいは、照れているだけだと説明できるものではない。
「こんなところで、あんた嫌がってるのわかってたのに」
「違う! 嫌だなんて言ってない! そりゃちょっとビックリしたけど……でも、そうじゃなくて、だってあんなこと言ったの俺で、カカシ先生が怒るのも当然なんです。だから……ッ」
必死で言い募った。
「だから…、嫌なんて思うわけなくて。そうじゃない。俺は、嬉しくて」
本音を言おうとするほどに舌が縺れていく。的を得ない言葉の羅列は俺の混乱そのものだ。
「だって、カカシ先生いつも辛そうだから……!」
「……もう止めてよ」
小さくカカシ先生が言葉を遮った。
「お願いだからそれ以上は優しいこと言わないで。自分が嫌になる」
その言葉にカっと血が昇る。何が優しいだ。ふざけるな。
あんたは優しいと思う言葉を聞いて傷つくのか。
「何が…ッ! カカシ先生、俺のこと何だと思ってるんですかっ?」
かみ合わない会話に苛立ちが募る。そもそもの原因は俺なのに、責めるように大声をあげていた。
「イルカ先生にはわからないよ」
「何で決め付けるんですかっ? 嫌じゃないと、俺は言ってるのに、あんたが勝手に決めつけてそんな辛そうにして……、そんなの変だ」
伝わらない悔しさに視界が滲む。
カカシ先生はもう何も聞きたくないと言うように立ち上がった。慌ててそれに続いた。
「まだ話は終わってません!」
勢いに任せ、肩を引き寄せる。瞬間、男は大きく体を震わせた。
「触らないで」
鋭い言葉に息が詰まる気がした。
実際、俺のことを拒んでいるのはカカシ先生ではないのか。
あれほどの恋情を叩きつけておきながら、俺が触れようとすれば逃げる。
「…教えてください。カカシ先生、何がそんなに辛いんですか…?」
震える言葉尻が情けなく、歯の奥を噛み締める。本当は泣きそうなのかもしれない。それも嫌で、強く噛み締めた。
「……さっき、イルカ先生別れたいって言ったけど」
唐突にカカシ先生が喋りだした。
「それは…」
「うん。イルカ先生、撤回してくれたけど。言われた時…とてもじゃないけど無理だと思った。あんたを手放すなんて考えられない」
軽い口調でそんなことを言う。内容とのギャップに戸惑っていると、男の肩に置いたままだった指を外された。
「酷いことしてごめん。ちゃんと話も聞かないで……。イルカ先生、怖かったよね」
首を振って否定する。
目の前の男は自嘲気味に唇の端をあげた。
「いつもそうだ。あんたが何をしても何を言っても煽られる。側に居るだけて勃つんだよ。盛りのついた猿みたいに」
「え…っ」
「今も、そう。あんた、一生懸命いろいろ言ってくれるけど、それ見て俺は興奮してる。そんな場合じゃないのに、ねえ?」
直接的な言葉にウロたえてしまう。どう答えていいかわからない。
「最低だよ」
男は唇をあげ自虐を吐く。
そんなことないのに。言いかけ、ハタと気付いた。
(……同じじゃないのか)
俺の劣等感もカカシ先生の劣等感も。
好きだと想いが募るほどに自分が嫌になる。
「俺も」
同意を呟くと、カカシ先生は吃驚した顔で俺を見つめ返してきた。
「俺も、カカシ先生と一緒です。側に居ると、その、興奮するというかどうして良いかわからなくなって……」
押しつぶされそうな羞恥にいつも逃げ腰だった。
そのことは……どれだけ悔いても足りない。
ただ、今必要なのは謝罪やましてや反省の弁ではないだろう。
「今もそうで……。カカシ先生、やっぱり勘違いしてます。俺は…その、だ…抱かれるのは、嬉しくて、いつだって触って欲しくて」
腕を引き寄せ、色のない頬に口付けた。
「だから、家に帰って続きしましょう……?」
しばらく、カカシ先生は何も言わなかった。俺の顔を見つめ、腕を掴む俺の指に視線を落とす。その指にギュっと力を込めた。
「……いいの?」
カカシ先生は泣き笑いの顔で笑った。
俺も頷きながら、やっぱり胸は痛かった。
(やっぱ邪魔だよな)
くだんの冷蔵庫を前に唸った。
今、こうしている間にも電気代は課金され続けているのだ。
すぐにでもコンセントを引っこ抜きたい衝動に駆られる。
「また冷蔵庫のこと?」
振り向くとカカシ先生はクスクス笑いながら買い物袋を提げ台所の入り口に立っている。
「カカシ先生こそ、また肉ですか?」
牛のマークのはいった買い物袋に自然と眉根が寄る。
あの川辺での一件以来、カカシ先生はたまにこうして肉を買ってくるようになった。それまで自発的に物を買うことはほとんど見たことがなかったのに。最初はただ食いたいだけだろうと思っていたが、さすがに週に二度三度となるとおかしい。聞くと、『これぐらいさせて下さい』と要領を得ないことを言われた。ますますおかしい。そう首を捻る俺に答えをくれたのはパックンだった。
『代わりに言ってやったぞ』
肉屋の前でのパックンとのやり取りがフラッシュバックする。肉が食いたいと二人(?)で話し、パックンはカカシ先生をアテにしろみたいないことを言った。他愛もない雑談だ。
(カカシ先生に喋ったな、パックン……)
恥ずかしいやら情けないやら、パックンにまでいらない気を使わせてしまった。肉すら満足に買えない俺をカカシ先生はどう思ったか……。いや俺だって、別に本当に買えないわけじゃない。何かあればそれぐらい奮発することは出来る。だけどそう頻繁には無理というかそんなに度々良い肉は食わなくていいというか。そのことをカカシ先生に言おうとしたこともあったが、パックンに好きにさせてやれと言われた。余計なことを言うな、とも。最初はカカシ先生のことを考えての発言かと思っていたが、どうもそれは違うらしい。
カカシ先生の買ってくる肉の量は二人分にはしてはかなり多い。ついでに忍犬達の分も買っているみたいだ。
つまりは、そういうことだ。
パックンもただの親切をしてくれているわけではなく、それなりの思惑があっというわけだ。
今もカカシ先生の後ろでパックンが目配せしてくる。
『わかってるだろうな』
何も言わずどんぐり眼だけで物語る。
それにはしぶしぶ頷き、カカシ先生から買い物袋を受け取った。ズシリと腕にくる重みにトホホと呟きたくなる。
肉を食うことは、まあ良い。美味いし。
だが、これのせいで、未だ冷蔵庫を手放せないのだ。奇しくも今は夏。生肉など外に放置しようものならあっと言う間に腐ってしまう。これを保管する場所が必要なのだ。
カカシ先生にはこの冷蔵庫の生活における不利益を俺は何度も説明していた。とにかく無駄だと、何度口をすっぱくして言ったことか。それなのにカカシ先生は聞く耳を持っちゃくれない。これぐらいの電気代は何でもない、それよりも冷蔵庫は必要ですと平然と言ってのけるだけだった。
「ね? この冷蔵庫がなくちゃ困るでしょ」
肉を冷蔵庫にしまう俺の横でカカシ先生が言う。
果たしてそうだろうか?
別にこんなデカイ冷蔵庫でなくても一般家庭用の小さなもので充分事足りるはずだ。
わからん。
カカシ先生が何を考えているのか俺にはさっぱりわからんぞ。
不満の意を目に込めれば、カカシ先生は恥らうように目元を染めた。
「イルカ先生、今日は…?」
「…………」
「このまま泊まる? 俺は、泊まっていって欲しいです」
カカシ先生はシドロモドロに言いながら、腰を抱き寄せてきた。
拙い誘い文句は相変わらずだが以前比べればいくぶん積極的になったといえる。
(まあ……無駄なばかりでもないか)
カカシ先生から目を逸らし冷蔵庫を見る。
やはりデカイし邪魔だとしか思えないが、これがきっかけの些細な諍いは今の状況をもたらしてくれたわけだ。
「……駄目?」
答えない俺にカカシ先生が不安げに言葉を揺らす。
そこは前と変わらない。
だけど、もどかしさを感じることはもうなかった。
「寝袋はなしでお願いします」
言うと、カカシ先生の表情がパっと明るくなる。
それを見て、俺もようやっと寄せた眉根を解くことができた。
(完)
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