夕暮れ、たそがれる(3)
いつもより早く仕事を追え待機所に出向いても、そこにカカシ先生の姿はなかった。
「カカシなら随分前に帰ったぞ」
アスマ先生が親切に教えてくれる。この人には多大な恩があった。失礼がないよう姿勢を正して頭を下げた。
あの日、カカシ先生と病室から消えた時、俺は大事なことを忘れていた。宿直当番だ。
そのことに気付いたときには既に外は白ばみ始めていた。
大慌てでカカシ先生とアカデミーに向かった。カカシ先生もまた三代目に呼び出しをくらっていたはずだ。・・・時既に遅しもいいところだが。
宿直室からは灯りが洩れている。誰かが代わりに入ってくれたのか・・・申し訳ない気持ちで恐る恐る戸を開くと底に居たのはアスマ先生だった。
二つ折りにした座布団に頭をのせグーグーと高いびきをかいている。
思わず悲鳴じみた声をあげてしまった。
それにすかさずアスマ先生が目を覚ます。同時に「うるせえ、中忍」と酒瓶を投げつけられた。それはカカシ先生がなんなく受け止めてくれたが・・・。
上忍に宿直当番をさせてしまった・・・。
大それたことを仕出かしたと青ざめる俺をよそに、アスマ先生はうるせえからあっち行けよともう一度酒瓶を投げつけた(一体何本飲んだんだ)。
カカシ先生も「家に帰るのが面倒だったんじゃないの」とぼんやりとした口調とは裏腹に結構図太いことを言っていた。意外な一面の発見だ。
そんなことがあったもんだから、俺はアスマ先生には頭があがらない。
(・・・良い人だよな)
今も聞きもしないのに教えてくれた。
知れば知るほどなんて面倒見の良い男だと感服する。素っ気無い振りをしながらその実ものすごく情が厚い。
カカシ先生の隣に居ても退けをとらない男。
少し、胸が焦げる気がする。
羨望の念を持つのは今の俺には、キツイ。
夕飯の材料を買うために商店街を通った。
ちょうど夕飯前のこの時間はもっとも賑わしく、あちこちで呼び込みの声がかかっている。
今夜は何にしようか?
いや、それよりも・・・カカシ先生の家に行くべきか?
(いや、ここは行っとけよ)
胸中で突っ込みをいれつつ、完全に俺は怯んでいた。
仕事中はいち早くと思っていたものの、待機所にないカカシ先生の姿に出鼻をくじかれてしまった。
どう話をすればいいのか俺自身よくわからなくなっている。
たかが冷蔵庫、されど冷蔵庫。
困ったことに、あの冷蔵庫に自分を重ねてしまった。
役立たずで邪魔なだけならいざ知らず、負担さえかけるその存在。
あんなもの、何故、購入する必要があったのか。
何故、俺を好きになってしまったのか。
(・・・くだらない)
卑屈な考えに、ますます自分がつまらない人間に成り下がるのがわかる。
口べたなくせにいつも必死で俺への好意を口にする男、それをどうして今更疑ってしまうのか。
カカシ先生がそれをさせまいと懸命になっているのを見ているはずなのに。
わけのわからない痛みが胸を競りあがる。
「イルカ、どうした?」
急に声をかけられた。
「え?」
反射的に振り返るが後ろには誰もいない。
「此処じゃ」
それでも声は同じ場所からした。
「パックン」
目線を下げると、どんぐり眼が俺を見上げていた。
「こんなところで立ち止まってどうした?」
「え・・・?あ、夕飯の材料を物色してて・・・」
慌てて店先を覗く振りをした。パックンもそれに続く。
「今夜は肉か」
顔は相変わらずの渋面だが、少し尻尾が揺れている。
「牛もいいが鴨も捨て難い」
「いいねー」
思わず同意した。が、すぐに財布の中身を思い出し肩が落ちる。
「・・・すいません」
謝ると、パックンが嫌そうに見上げてきた。
「バカにするなよ、若造。お主の財布などアテにしておらんわ」
「はい・・・」
「カカシをアテにしろ。イルカも肉が喰いたいじゃろ」
肉・・・確かに喰いたい。
そういえば昨日も肉を食いたい気分だった。実際は素麺だけだったが・・・。
昨日の夕飯のメニューを思い出し、ますます肩が落ちる。
(カカシ先生、任務から帰ったばかりだったのに)
俺は素麺しか出さなかったじゃないか。
気付くのも今更だ。何もこんな畳み掛けるように落ち込む事実を目の当たりにしなくても良いものを・・・。
口が裂けてもカカシ先生に肉が喰いたいなんて言えない。
「なんだ?覇気のない顔をして」
パックンがムゥと唸った。
「やっぱり肉だな。肉食って体力をつけろ!」
そう言うと、パックンは丸まった尻尾をフリフリさせながら人ごみに消えていった。
「あれ?」
結局パックンは何だったんだ?
散歩途中にたまたま出くわしただけだろうか?
首を捻るも、肉やの店主に声をかけらてしまった。思考もそこで中断される。
「そろそろ決まったかい?」
「えーっと・・・」
しまった!肉を買うつもりはない。素早く店先に目を走らせた。何か安いものを・・・。
「コロッケ、一個」
その店で一番安いものを買った。
(弱ってんなー・・・)
川べりに座りながら買う予定のなかったコロッケを齧る。普段ならこのように要らない物を買うことはしない。上手く逃げることが出来るのに・・・。
今日はそれをするのが億劫だった。
しかも、コロッケを食うという大義名分でこんなところで黄昏ている。
目を走らせると、向こう岸には釣り人が一人、その後ろをジョギングしている人や犬を散歩させる人、仕事帰りかこれから行くのか灯の消えた屋台を引く人、様々な人が行きかっていた。
その全てが夕焼けに染まっている。
向こうから俺はどう見えているのだろうか。
葦の群生を背にボーっと座っている暇人にしか見えないだろう。そんなどうでもいいことを考え、ノロノロとコロッケを齧る。
穏やかなもんだ。
比較的下流にある水面はゆっくりと流れている。そういえば最近雨が降ってないな。少ない水嵩にそろそろ雨が欲しいかも、と空を見上げた。
夕立が来る気配はない。そもそもその時刻はすぎていた。いくつかある白い雲は、沈む夕陽と同じ速さでまた西に僅か動く。
どうやら上空にすら風はないようだ。
それなのに、後でガサガサと葦の揺れる音がする。
「イルカ先生!」
近づいて来たのはわかっていたが、肩はびくついていた。
「・・・カカシ先生」
俺が立ち上がるより早く、カカシ先生が俺の顔を覗き込んだ。相変わらず素早い。
「こんなところでどうしたんですか?」
「・・・えっと、一休みにコロッケを・・・」
カカシ先生は右目だけでニコリと笑う。ぼんやりと見上げシドロモドロに答えた。
「よく此処がわかりましたね」
商店街の裏にあるこの川べりは普段は通らない。このように座り込んだりしたのは初めてかもしれないのに。
「さっきパックンと会ったでしょ?商店街に居るって教えてくれました」
「ああ。そういえば。・・・散歩途中だったみたいで」
言いながら内心ドキドキしていた。パックンがまさか肉のこと言ってやしないか・・・。
カカシ先生の顔を覗き見ると、少し照れたような顔でガシガシと頭を掻いていた。
「カカシ先生?」
「散歩じゃ、ないです」
「え・・・?」
「俺がイルカ先生を捜してって頼んだんです。行き違いになっちゃ困るし。俺はアカデミーの方へ行ってたから・・・」
あなたを迎えに。ようやく聞き取れるような小さな声でカカシ先生が付け足した。
その言葉の意味を解すまで数秒、ただ鼓動が早鐘を打つのだけを感じた。
(カカシ先生)
ブワっと胸に広がる痛みがある。
こんな人を俺は疑おうとしていたのか、こんなに好意を露にしてくれるのに。
急いで鞄を空け、あの電気代の明細票を出した。
気になっていることを言おうと思った。
「あの、これ・・・!」
「ん?朝の?」
差し出したそれをカカシ先生は不思議そうに受け取る。けれど、すぐに弓なりに目を細めた。
「嬉しい」
口布を引きおろしながら言う。口元にははっきりと笑みが浮かんでいた。
「え?」
嬉しいって何が?電気代の明細票に何を嬉しがる必要があるんだ?むしろ内容は嬉しいどころ悲しい代物だ。
「今日も、来てくれる予定だったんですね」
カカシ先生は手紙の方を見ていた。
(・・・そういえば、今日も行きます的なことを書いたっけ・・・)
「そっちじゃなくて、裏を・・・!」
「・・・?これが?」
「電気代の明細ですよね?こ、これ、物凄く高いんですけど・・・カカシ先生、大丈夫ですか?」
キョトンとした顔を返される。
昼間の穿った考えが即座に否定されるのがわかった。わざと見せたんじゃないのか、なんて、この人がそんなことするわけないじゃないか・・・!
この料金が高いも安いも、カカシ先生は全然気にしていない。それはわかった。
でも、
「うん」
カカシ先生はニコニコと笑いながら頷いたりするから、よくわからなくなってきた。
申し訳ないのか腹立たしいのか、・・・ただ胸が詰まった。
これでいいわけがない。
こんな電気代払うなんてバカげている。
それを言わなくては。
そう思うのに、目の前の男が優しいから。
なんだか視界がぼやけてくる。ヤバイ泣きそうだ。
「・・・イルカ先生?」
顔を覗き込まれる前に抱えた膝に顔を埋めた。
「カカシ先生」
「はい」
甘やかすような声音だと思った。
この男が好きだとも。
・・・だから、苦しくて、怖くて。
「カカシせんせい」
「はい」
呼ぶと律儀に返事をしてくれる。
それだけで、何も考えられなくなる。ただ感情だけがこみ上げてくる。
「別れてください」
その言葉が、最初誰のものかわからなかった。
(・・・え?)
恐る恐る顔をあげる。無意識に指が口を抑えた。震えているのがわかる。けれど、それが指なのか、唇なのか区別できない。両方かもしれない。
(俺、今何を言った・・・?)
ようやくそれが自分の言葉だと気付いた。
ドクドクと耳障りなほど心臓が音をたてる。
「どういうこと?」
スっと血が下がる。
平淡な声は低く、鋭い。
伸びてきた手は容赦なく肩を掴んだ。指が食い込み骨を軋ませる。
何故こんなことを言ったのか自分でもわからない。
そんな気は全然ない。カカシ先生が好きなのに。
(怒らせた)
「・・・ごめんなさ・・・!」
慌てて言い募ろうとした。
けれど、それも途中で塞がれた。
恐ろしさに目だけでカカシ先生を見上げる。
思わず体が後へ逃げた。男は感情のない目で俺を見下ろしていた。
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