アンチエイジング(2)
(イルカに会いたい)
見上げる空は何処までも高い。厚みのない雲が空を走り青いはずの空を所々白ませる。
(イルカの声が聞きたい)
立ち止まっていた足を再度進めた。里はもうすぐそこだ。
はやる気持ちをそのままに地を蹴った。
里に戻るだけのために急ぐことなどこれまでなかった。追われているわけでもない。次の任務が控えているわけでもない。
急ぐ理由など何もないはずなのに、ただイルカに会いたいとそれだけが俺を逸らせる。
「はたけ上忍!!・・・申し訳ございません!!追いつけません!!」
後方で俺と任務に就いていた新米の特別上忍が叫んだ。
「あ」
その声にしまったと後ろを振り返る。顔を確認するのが難しいくらいの間をあけ、その特別上忍が必死で俺に着いてきている。
「任務終わったから、あんたはゆっくりでいーよ」
先にそれを言って置けばよかった。可哀想に、昨日の今朝方里を出てから休む暇もなくずっと走り詰めだったというのに、俺の都合で任務を終えても全力疾走している。
「ですが、報告書が・・・!!!」
息を詰まらせながら、それでも律儀に特別上忍が叫ぶ。
報告書か。
その単語にすぐさま彼の人が脳裏に浮かぶ。
振り向いていた顔を戻し走る速度を更に加速させた。
「報告書は俺が出しに行きたいんだ」
俺なりに声を張って後ろの特別上忍に言う。
「す・・・すいません、聞こえなかったので、もう一度・・・!!」
ええ?あんたの声ははっきり聞こえるのに。
後方の必死な気配がどんどんと遠ざかるのがわかる。仕方ないと、もう一度深く息を吸い込んで後ろの特別上忍に声をかける。
「あんたはもういいから!」
存外に、自分のペースで里に戻れと言ったつもりだったのに、
「・・・ヒドイっす!!!」
何故か特別上忍が悲痛な声で叫んだ。
(何が酷いんだ?)
走る速度はそのままに首をかしげそうになった。だが、目前へと迫る里に意識はすぐにイルカへと引き戻される。
俺は完全にイルカに夢中になってしまっている。
もうイルカのことしか頭にない。
任務に出る前、初めてイルカの家で一晩過ごした。正確には、夜明け前にはもう任務に出ていたのだが、イルカを抱いた後しばらくその体を抱きこんだままでいた。
日を追うにつれ、イルカと離れている時間が苦しくなってくる。時間がある限りイルカと一緒にいたい。
だが、イルカが俺を前にすると可哀想なほど体を強張らせるから、俺は出来る限り会いたい気持ちを押えていた。我慢できるときはイルカを遠くから見るだけで満足させた。
イルカへの気持ちを自覚しその体を手に入ればかりの頃は、その我慢も4〜5日は持った。
今よりも任務の頻度が高かったせいもある。それこそ寝る暇もない激務の日々に、イルカに会って抱きしめる余裕などなかった。
だから、一目だけでもいいからとイルカの姿を探し、見ては満足してまた任務へと赴く。
それが出来たはずなのに。
日毎それが辛くなっていく。一目見ればその肩を抱き寄せたいと、唇を押し付けたいと、恐ろしいほどの欲が押し寄せる。
寝る時間など要らない。
それよりイルカを抱いていたい。
体を強張らせるイルカを確かに可哀想だと思っているのに、それより自分の欲が先走っていく。
最後にイルカを抱いたのは一昨日、本来ならばまだ我慢出来る期間だ。もう一つくらい任務をいれられるくらいには満たされているはずなのに。
実際はどうだ。
満たされるどころか更に飢えている。抱けば抱くほど、もっともっとと強請ってしまう。
(・・・あの体は反則だよね)
まさか、他人と肌を合わせることはあれほど気持ちの良いものだとは。手足を絡ませ、肌を密着させるなど、イルカ以外とはしたことがなかった。
性行為事態、欲を発散させる以外の意味はないと思っていた。行為さえ済めば熱は急速に下がり、相手の汗ばんだ体にはむしろ嫌悪が走った。
絡み付いてくる手を振り落とすことに躊躇ったことなど一度もなかった。
なのに、イルカには自分から肌を寄せてしまう。
情事の最中のイルカを思い出すだけで腰が重くなる。
強いあの瞳が情欲に潤む。引き結ばれた唇が快楽に流され熱い息を吐く。震える声で名を呼ばれる。
イルカの口元に耳を寄せ、何度もイルカの声を強請った。
抱かなければ絶対に聞けないイルカの嬌声。
この朴訥とした男の何処にこんな色気が隠されていたのか、驚きとともに焦りを感じた。
誰にもこの姿を見せてはいけない。見たら最後、どんな男もイルカを欲しくなってしまう。
幸いなことに、イルカは男を相手にするのは俺が初めてだったらしい。この人に情欲を抱かなかった間抜けな里の男どもに俺は精一杯感謝した。
(もう、会ってもいいだろうか)
たった二日しか間を空けていない。イルカの体もまだ辛いかもしれないが・・・それでも、会えば抱きたくなる。
震える腰を抑えつけ欲を埋め込まないと気が済まないだろう。
顔を見るだけで満足することなど、もうとうに出来なくなっていた。
イルカのシフトは熟知していた。だから、今日のあの時間帯は受付業務のはずだ。だが、イルカの姿はそこになかった。急な変更でもあったのかとアカデミーも覗いてみたがやはりイルカは居ない。
思いあたる限りイルカの姿を探したが、どこにも見つけることは出来なかった。
急な任務でも入ったのだろうか。俺の知る限り、ここ最近イルカには里の外へ出るような任務を受けていない。
イルカは事務処理に長けている。里が混乱しているこの時期だからこそ、里の中心がしっかりとする必要がある。
そのためには長年内勤に従事しているらしいイルカの能力は不可欠だった。
(イルカは何処だ?)
俺が知っているイルカの行動範囲、受付、アカデミー、家、ナルトの話でよく出ていた一楽、内勤連中がよく行くらしい食堂、アカデミーとイルカの家の間にある商店街。
改めて考えるとあまりに少ない。
しかもそれらをイルカの口から聞いたことがない。俺が勝手に知っただけのイルカの行動範囲。
そのことを寂しく思う。だが、こみ上げるこの焦りがまた別物だった。
もし、イルカの側に誰か居るとしたら。
俺の知らない場所に居るイルカの側に、誰かが・・・。
俺以外の者がイルカを抱きよせ、口付けを交わす。それにこたえるイルカ。あの甘い吐息をまさか他の誰かに聞かせてやしないかと、考えるだけで冷や汗が背を流れる。
有りもしない空想に身を焦がされる。
馬鹿げた行為だと頭の片隅ではわかっていながら、万が一でも、と思えば頭の隅の声など遠くなるばかりだ。
(もう一度、受付に・・・)
居ないからとロクに確かめずに出てしまったが、受付に居るものならイルカの居場所を知っているかもしれない。
はじめにそれをしなかった己の余裕のなさに歯噛みしながら足を走らせた。
俺の知らない場所に居るイルカ、それだけで胸が重く沈んだ。どんなに体を重ねてもに緊張を解かないイルカに対して寂しさと同時に何故だと詰め寄りたくなることもあった。
けれど、俺の側に居てくれるのなら。
それがどんな姿だろうが、たとえ張り詰めた表情で笑顔など見せてくれなくても構わない。
ここからだとアカデミーの裏門が近い。
さっきから視界が赤い。夕焼けのせいか、それとも、この身を焦がす嫉妬のせいか。
流れる景色を見る余裕はなかった。
求めるのはイルカ、その人しか居ないはずだったのに。
既に閉ざされた裏門から飛び降りるとき、小さな姿が視界に飛び込んできた。吸い寄せられように視線が止まる。
(・・・子供?)
裏門の近くにある花壇の前で小さな子供が座り込み、何かしている。
いや、子供というにはあまりに小さい。赤ん坊がようやっと立っているような・・・。
この光景は確かに不自然だ。
あんな小さな子がこんな時間に一人で居るなど有りえない。保護者はどこに居るのか周りを見渡しても、此処にはその子供しか居ない。
このような状況でなければ、その不自然さを訝しく思っただろう。
けれど、今の俺にそんな余裕はないはずだ。
小さな子供に構っている暇はないと、わかっているのに。
気づけばその子の側に歩み寄っていた。
何か妙な予感がする。
俺の影が小さな背に黒い影を落としたとき、ようやっとその子が顔を上げた。
顔中泥だらけだ。いや、全身泥だらけだ。どうやら泥団子を作って遊んでいるようだった。子供の横にはプラスチックのスコップとバケツがやはり子供と同じように泥だらけだった。
まるでこの小さな生き物が一つの泥団子のみたいだ。
子供はただ俺を見上げる。黒い瞳と、黒い髪。木の葉では主流のその色は、何故かイルカを思い起こさせた。
(・・・何だ?)
これまで黒い瞳や黒い髪を見ても、そこからイルカを喚起したことはなかった。
何故、この小さな子供の黒はイルカに重なって見えるのか・・・。
「イルカ先生・・・?」
気づけばその名を呟いていた。子供はただ俺を見上げる。
自分でも何故だかわからない。
泥にまみれた子供の顔には俺の知るイルカの面影は見当たらない。トレードマークの鼻の傷だってないのに。
「ああ!あんなところに・・・!!」
ふいに、よく知った声がした。
声と共に、バタバタと近づいてくる。どうやら一人ではないみたいだ。
振り返ると、サクラが血相を変えてこっちへ走ってくるところだった。その後ろにはシズネが居る。
二人ともこの子を探していたのだろか。
「もう!駄目じゃない、イルカ先生!一人で遠くに行っちゃ・・・!」
サクラに会うのは久しぶりだ。
だが、そんなことよりも、
今、何と言った?
サクラはこの泥だらけの子供をなんと呼んだ?
「カカシ先生・・・」
サクラが俺を見て足を止める。
「あ・・・お久しぶりです」
少しだけ気まずそうにサクラは言う。
「ん、久しぶり」
それに答えながらも、シズネがこちらへ走ってくるのに意識が向かう。
シズネは俺になど目もくれない。
子供に走りより抱き上げようとする。
「返してください!!」
シズネより早く、その子を抱き上げた。シズネが何をするんだとばかりに声を張りあげた。
「はたけ上忍、その子を返してください」
「この子あんたの子?」
あまりに軽いその子の体を、それでも両手でしっかりと抱き寄せる。
シズネが目を眇めて俺を見た。そして子供に目をやる。
「・・・そうです。ですから、早く返してください」
話を切り上げようとしているのが見え見えだ。何を平然と嘘を吐いているのか。
シズネの後ろでサクラが何事かと交互に俺達を見やる。
「シズネ先輩・・・」
「サクラ、さっきこの子を何て呼んだ?」
「え・・・?」
「サクラ、言う必要はないわよ」
「・・・でも・・・」
さっき、サクラは確かに言った。
イルカ先生、と。
「この子、イルカ先生なんでしょ?」
別に頷かなくても良い。もうわかった。どんな事情があるか知らないが、この子供はイルカだ。
一目で俺を引きつけるのはこの世にイルカ存在しない。
サクラが困り果てた表情で俺の腕の中のイルカを見た。そして空を振り仰ぐ。
「せんせ〜、助けて〜〜!」
その先生は、俺ではない。ましてやシズネでもない。
七班の面々は皆どーかと思うほどイルカを信頼している。そして、こんなに小さくなったイルカを見てもなお、頼ってしまうのだろう。
思わず笑ってしまった。
だが、サクラの声に反応したように、腕の中の小さなイルカが声を上げた。それと同時に精一杯身をよじり、俺の腕から逃げ出そうとする。
そうはさせない。
柔らかく小さな体を潰してしまわないように、細心の注意を払ってイルカを抱きしめる。
どんなに嫌がろうが離すつもりはない。
「はたけ上忍、その子を返してください。可哀想に、怯えてるじゃないですか」
シズネがほら見たことかと得心顔でイルカに向かって手を伸ばす。
その間にもイルカの鳴き声はどんどん大きくなる。まるで怪獣が鳴いているみたいだ。ギャアギャアと、とても元気が良い。
顔を覗き込むとイルカは顔をクシャクシャにして、その目には涙を精一杯溜めていた。
胸が引き絞られる気がした。
ああ、可哀想に。
急に、どうしていいかわからなくなった。
「だ・・・大丈夫だよ?怖くないからね?」
泣くイルカはとても可愛いけれど、それよりも可哀想で・・・。
俺は赤子をあやしたことがなかった。知っている知識を総動員し、なんとか宥める手立てを考える。
「ほら、たかい、たかーい・・・」
小さなイルカを持ち上げるとサクラが「ヒィ!」と喚いた。なんだ?だんだんシズネに似てきたな。
「カカシ先生!やめてあげて!本当に怖がってるじゃない!!」
確かに、イルカはまるで火がついたみたいに泣き喚いている。
「サクラ、どうすればいいの?」
困って教え子を見ると、
「はたけ上忍がどっか行けば泣きやみますよ」
聞いてもないのにシズネが言った。
しかもサクラがそれにコクコクと頷く。イルカは闇雲に身を捩っているわけではない。
腹が立つことに・・・シズネに向かって手を伸ばしているじゃないか。
この性格の悪そうな女の何処かそんなにいいのかさっぱりわからない。
シズネはもう俺のことなど無視してイルカを掻っ攫うとした。
その手から思いっきり遠ざける。
「何すんのよ。人攫い」
言うと、シズネの眉が吊り上がった。
「どっちが?!」
シズネとサクラの声がはもる。そしてイルカがギャアと鳴いた。
「お前達は一体何を考えてんだい?!」
五代目が机を割らんばかり拳を叩きつける。その振動は俺の脚まで伝わってきた。天井の電灯はゆらゆら揺れている。
「それはこっちの台詞ですよ。なんでうみのイルカがこんなことになってるんです」
あの後、騒ぎを聞きつけた五代目に呼び出されてしまった。
俺はイルカを抱いたまま向かったが、火影執務室に入るやいなやイルカは取り上げられてしまった。
この五代目に。
驚くことにイルカは全く嫌がらなかった。
あの豊満な胸で顔を圧迫されながらも苦しがるどころか・・・、むしろ自ら五代目に抱きついて行ったように見えた。
(所詮胸か!!)
絶望に打ちのめされる。
俺はアレを・・・特に五代目のように片乳5キロはありそうな脂肪を持っていない。あるのは決して柔らかくはない筋に覆われた平らな胸だけだ。
この胸に抱き寄せると、イルカは泣くほど嫌がってくれた。
そのイルカは今、執務室の端にあるソファーの上で大人しく本を広げている。
あんな小さくて果たして文字を読めるのか定かではないが、とりあえずは楽しそうだ。五代目の声に一瞬何事かとこちらを見たが、俺と目が合うとすぐに本に顔を戻した。
きっと、あの本が面白くて溜まらないのだろう。
そう決め込み、五代目に向き直った。
「うみのイルカをどうするおつもりですか?」
五代目が「ああ?」と顔を顰める。
「カカシ・・・それは叱られてる奴の態度じゃないねえ。もっと反省しな」
「何をです?こっちの二人はともかく、俺は何もしちゃいませんよ」
途端に俺の横で同じく叱責を受けていた二人の・・・特にシズネの形相が変わった。
「綱出さま!この男がイルカを攫おうとしたんですよ!!私達はそれを止めようとしただけです!そうよね、サクラ!!」
「・・・そ、そーです!私達は別に何も・・・!!」
「うるさい!!」
言い募る二人の声も五代目の一喝で静まる。
「あんなに泣き喚いてるってのに、お前達ときたら。可哀想に、ひきつけを起こす寸前だったじゃないか」
「それははたけ上忍が無理やり抱っこしたりするから・・・」
ボソリとシズネが呟いたが聞こえないことにする。
「カカシ、何だってこんなことをしたんだい。おまえらしくない。他人に関心を持つタイプには見えなかったけどね」
「おっしゃる通りです。うみのイルカでなければ関心なんてしませんよ」
その答えに、あん?と五代目は眉をあげ、え?とサクラが驚いた声をあげた。
「サクラ、そろそろご飯の時間だろ。イルカと一緒に行ってきな。あんだけ泣いたんだ。きっとお腹ペコペコだよ」
頬を染め俺を伺っているサクラに五代目が言い渡す。
ここからはサクラに聞かせないつもりか。俺は聞かれても問題はないのだが。
「イルカ!サクラと一緒にまんま食べておいで!!」
(まんま・・・!!)
一瞬我が耳を疑った。
まさかこの女丈夫の口からこんな単語が出ようとは。
だが、その声にイルカは素直にピョンとソファーから飛び降りた。
「あい!」
嬉しそうに返事までして・・・。
そのイルカの可愛いことときたら、五代目のことなどすぐにどうでも良くなった。
イルカが可愛すぎて眩暈がする。
「イルカ・・・」
吸い寄せられるように、足がイルカの方へと向かう。
イルカは飯が嬉しいのかニコニコとしていたが俺の顔を見つけると途端に強張らせた。
(あ・・・)
ヤバイ、また泣く。
そう思うより早く、五代目がサクラを急かした。
「サクラ、イルカが泣き出す前に、早く!!」
サクラは慌ててイルカを抱いて執務室から出て行った。俺はそれをとても寂しい気持ちで見送くる。
(イルカ・・・)
出来ることなら、俺も一緒に飯を食いに行きたい。
「・・・さて、何から話せばいいやら」
面倒くさそうに五代目が息を吐いた。
俺も、イルカと離れなけれならない寂しさにため息を吐いた。
シズネは一人「ま、まんまって・・・!!」といまだ声をかみ殺して笑っている。当然、五代目に雷を落とされていた。
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