閃光





ともすれば抜けそうになる腰をなんとか奮いたたせアカデミーへ出勤した。
朝礼には間に合わなかったが、俺の顔色の悪さを見ると誰も咎めはしなかった。有給を使えと薦められたので、その日必要最低限の授業の準備だけしてとりあえず職員室を後にした。
歩く度に腰が鈍く痛んだ。自宅へ帰って休みたい気持ちは山々だったが、それよりもしなければならないことがある。
(紅先生)
目的の人物はすぐに見つかった。どこかで俺の様子を窺っていたのかもしれない。
待機所へと続く廊下の向こうで、黒髪の妖艶なくの一がいつもより覇気のない様子で佇んでいた。
手だけで「アッチ」と使われていない特別教室を指差すので、俺も無言で頷いた。
「・・・カカシなら急な任務がはいって里を出てるわ。2・3日は帰らないはずよ」
開口一番に言われ、ホっと体の力が抜ける。
「座ってもいいわよ」
「いえ、このままで結構です」
気遣いは有りがたいが立っていた方が楽なのだ。紅先生も無理にすすめはしなかった。一瞬だけ、申し訳なさそうに目を眇められる。
その表情に、大方の事情は察しているだろうことがわかった。
「あそこにカカシを運んだことは迂闊だった。あなたには本当に申し訳ないことをしたと思う」
気まずい空気を断ち切るように紅先生が口火をきった。
「私達も動揺してたのよ。まさかカカシがああなるとは思わなくて・・・。ああもう、なんて、説明していいかわからないわね」
「催淫剤の類ですか?」
あの様子はそうに違いないと思っていたが、・・・どうも紅先生の表情が暗い。
今更隠すようなことはないはずだ。既に俺は犯された後で目の前の女性もそれを承知している。
このように躊躇われるのは心外だ。
むしろ「任務の一環だ」とでもズバっと言って欲しい。
催淫剤に自制を失った男を助けたのだと言ってもらえれば気が楽になる。
「それ、もあるかもしれないんだけど・・・」
「・・・他にも理由が?」
「催淫剤なんて、・・・そんなご大層なものじゃないのよ。あんな子供だましな・・・」
「紅先生、はっきりおしゃってください」
いつもは快活なこの年上のくの一がこのように言いよどむ姿は見たことがない。
自分が欲しいのは慰めでも気遣いでもないのだ。ただ事実を知りたいのだ。
詰め寄ると、紅先生は半ば投げやりに言い放った。

「惚れ薬よ」

「惚れ・・・?」
なんだそれ。そんな大雑把な薬があるのか?
「先週縁日があったでしょう?その見廻りをしてたんだけど、ちょっと引っかかる露店商が居たのよね」
紅先生は椅子に腰かけると、懇切丁寧に説明を始めた。

 

 

   縁日は賑やかでどこもかしこも込み合っている。しかし、その店の周りだけ人気が少ない。紅は気になり
  様子を見に行った。その露店は屋台ではなく、茣蓙にいくつかの商品を並べてあるだけだった。置いてあ
  るのもガラクタとしかいいようがないものばかりだ。店主は木の葉では見ない異国の衣装を着ていて見る
  からに胡散臭げだ。旅商人という風情の男は必死で客寄せをしているが誰も見向きもしない。当たり前だ、
  旅商人は若い娘ばかり声を掛けていた。若い娘があんなガラクタを・・・・・陶器の猫人形だの、ラクダの干
  物だの、石器時代の包丁だの、欲しがるものか。若い娘でなくとも、欲しがる者はいないだろう。紅はその
  店に一瞥をくれようとしたが、・・・その旅商人と目が合ってしまった。『しまった!』そう思った時はもう手遅
  れだった。   怒涛の勢いで商品を売り込もうとする。旅商人はしきりと紅の容姿を褒め湛えた。鬱陶しい
  ことこの上ないが、まあそう悪い気もしない。しかし、紅をひとしきり褒めた後、旅商人はおもむろに後から
  一つの商品を取り出した。それは店先に並ぶガラクタとは違い、随分と小奇麗な瓶だった。そして紅に言う
  のだ。『大概の男はあんたの虜じゃが、そんなのあんたは欲しくない。千人からの求愛より、たった一人に
  尽くされたい。・・・そうじゃろ?』ニヤリと旅商人が笑う。不愉快だと紅は思った。紅にはれっきとした恋人は
  いる。いささか素っ気無くはあるが、恋人は優しい・・・いや、紅は昨晩の恋人のことを思い出した。家に来
  る約束だったが、男にドタキャンされた。抜けられない所用だというが、何のことはない、ただの飲み会だ。
  紅もそれに誘われていたので知っていた。 そして断ったのだ。恋人との約束を優先した。しかし恋人は
  違った。二つ返事で出席だと?ふざけるな。いつも男はそうだった。めんどくせえを連呼する恋人はその実
  非常に面倒を背負い込むのが好きなのだ。紅はいつも後まわしにされている気がしていた。けれど、それ
  を咎めるほど自分は幼くない。幼くはないが・・・もう少し自分のことを考えて欲しいと思っているのも確か
  だった。『そんな姐さんにお勧めなのがこの商品!』男は身を乗り出して商品を紅の眼前に突き出した。
  『どんな男も一口飲めばあ〜ら不思議!最初に見た相手に惚れ抜いちまうのよ。寝ても覚めても惚れた
  相手のことばかり!それで見崩れ起した男も数知れず!ワシだって誰彼かまわずこの商品は売れねえよ。
  姐さんには男に一人や二人馬鹿にする価値があるって見込んだのよ。どうだい!安くしとくよ!!』紅は
  ・・・その言葉に揺れた。旅商人の言うことは胡散臭いことこの上ないが、見たい。痛烈に思った。自分に
  骨抜きになる恋人が見てみたい。『いくら?』『千!』『さようなら』『待ってくれ!半分いや、百!これでどう
  だ?』『・・・何時まで続くの?』『ハハハ!一生と言いてえとこだが、そこまでの効力はないわな。持ってせ
  いぜい三日ぐらいかな』『たった?』『姐さん、ケチなこと言ってくれるな。たったの百で一人の男があんの
  虜になるんじゃ。充分じゃろ』紅は結局その商品を買った。紅とて旅商人の話を信じているわけではない。
  ただ昨日のドタキャンにいささか心がささくれていた。持ち帰ったソレをすぐに恋人に飲ませてやろうとした
  が、冷静になって考えると何かわからぬ物を恋人に飲ますのは危険だ。とりあえず成分を調べてみること
  にした。『・・・騙された』紅は試験紙を前にガックリと肩を落とした。旅商人が『惚れ薬』と言ったものは、
  何のことはないただの砂糖水だった。はじめから胡散臭いとわかってはいたが落胆せずにはいられなか
  った。そして腹も立つ。素っ気無い恋人も口車に乗せられて紛い物を買った自分も歯がゆくてしょうがない。
  紅はしばらくクサクサした気分で居た。そんな時、待機所で同僚であるカカシと一緒になったのだ。暇つぶ
  しがてら話をしようとしてもこの同僚は会話が下手だった。何を言ってもエロ本から目を逸らさず『ふーん』
  だの『へー』だのしか言わない。だが、紅がその惚れ薬の話を始めた時、俄かカカシが興味を示した。
  正直、紅は非常に驚いた。カカシにとって一番どうでもいい話だと思ったからだ。相槌すら期待していなか
  った。そのカカシが何故?紅は目を輝かせた。この面白くない同僚をからかってやろうと決めた。紅は
  旅商人を真似ておもむろに例の『惚れ薬』(という名の砂糖水)を取り出してカカシに解説を始めた。紅の
  弁舌は巧みだった。その『惚れ薬』がさも本物かのように語る。カカシはいつしかエロ本を閉じそれに聞入
  っていた。そして、一通り話し終えた紅に『その店、どこ?』と聞くではないか!紅はカカシには見えぬように
  ほくそ笑んだ。『縁日だったから、もう他所に流れちゃってでしょうね。でもね、カカシ、安心して!私の持っ
  てるこれを、あんたに譲ってあげるわ。いいのよ、いつも世話になってるし。それに私よりもあんたの方が
  必要なんでしょう?』紅は持っていた小瓶をカカシの手に握らせてやった。金を取る気はない。一時の暇つ
  ぶしになってくれたせめてもの礼だ。カカシとて上忍、ボケーっとして見えるがすぐに紛い物だと気づくだろう。
  しかし、・・・紅はカカシの行動に度肝を抜かれた。『馬鹿!何飲んでんのよ!!』あろうことかカカシは自ら
  それを含んだのだ。カカシはすぐさま変調を来たした。体が小さく震えだしたではないか。紅は焦った。
  毒物だったのか?いや、それはないはずだ。あれはただの砂糖水でしかなかったはずだ。だとしたら・・・。
  紅は青ざめた。万が一あの旅商人が言うことが本当だとしたら?本物の『惚れ薬』だとしたら?紅は
  おもむろに自分を振り替えろうとしたカカシの後頭部を殴って気絶させた。まだ本物だと決まったわけ
  ではないが、もしそうなら性質が悪すぎる。旅商人は『最初に見た相手』と言っていたのだ。カカシに
  惚れられるなどまっぴらご免だ。意識を失ったカカシを紅はとりあえず隠そうとした。ベッドがあり、それ
  なりに処置が出来そうな場所・・・一番近いのはアカデミーの医務室だった。そしてそこへ向かう途中、
  あろうことか恋人に見つかってしまった。

 

 

「・・・それであんな場所で言い合ってたんですね」
「そう。そしたらイルカが来たの」
「で、お二人の制止を振り切って医務室に入ってしまったと・・・」
「そうよ。あれだけ止めたのに」
その場に座りこみそうになってしまった。
(なんてくだらないんだ)
そんな馬鹿げた薬のせいで俺は・・・・。

男に尻を掘られたってわけか?

(ぅわあああぁぁぁぁぁぁぁ!!)
情けないやら悔しいやらで叫びだしてしまいそうだ。だが、仮にも上忍の手前、なんとかそれを我慢するが・・・クソウ、この憤りどおしてくれる。
「イルカ、落ち着いて。ちゃんと息を吐いて。ね。そう」
紅先生に促され何度か深呼吸をするも・・・駄目だ、とてもじゃないが治まりそうにない。
(・・・自分で飲んだだと?)
任務中に敵にやられたとか何かの実験台になったとか不幸な事故とか、とにかくそういう最もらしい理由じゃないのかよ?!
ないんだな?!!
「本当に!!そんなもんが存在するんですか?!惚れ薬なんて、そんな・・・・!しかも、あの人はたけカカシでしょう?!超エリートじゃないですか?!
 なんでそんなものにホイホイ引っかかってるんだ?というか、何故飲む?!あの人馬鹿なんですか?!」
「馬鹿だとは思うわよ。でも・・・」
紅先生は遠い目をしていた。
「あそこまで馬鹿だったなんて予想外だわ。それに・・・まさか本当に惚れ薬だったなんて」
あろうことか紅先生は「もったいないことをした」と呟いたではないか!
「そんな!俺のことはどうでもいいんですか?!」
「あ・・・ああ、ごめんなさいね。でも実際あの威力は凄いわ。イルカだって目の当たりにしたんだからわかるでしょう?もうあなたのことしか目に入らなくなっちゃってんの。今朝も、カカシを任務に駆り出すのに随分苦労したみたいだし」
今朝・・・そういえば目覚めたとき俺は一人でベッドに寝ていた。体は綺麗にふき取られ、部屋の様子もいつもと変わらなかった。
腰の痛みがなければ昨晩の出来事などただの夢と思ったかもしれない。
男が部屋を出て行ったのには気づかなかった。俺は行為の半ばで気を失ってしまったわけだが・・・。
一体、何度犯されただろうか。
何度求められたかわからない。
意識を失う手前では、もう泣きながら止めてくれるよう懇願した気がする。それでも男は止めなかった。
「はたけ上忍、見かけによらず俗物的だったんですね・・・」
思わず口をついた言葉に紅先生は申し訳なさそうにうな垂れた。
惚れ薬というなら、男は別に強制的に淫欲を引き出されたわけではないのだろう。ならば、昨晩のアレは・・・。
恐ろしい。心底思った。巷では絶倫とよく聞くが、そうか、ああいうのか。
まさか身を持って知らされるとは思わなかったなあ。ハハハ。
「イルカには申し訳ないけど・・・あなたで良かったとも思ってる。もし一般人やそれこそ子供だったりしたら・・・」
「それは、危険ですね・・・」
確かに、男である俺でよかったのかもしれない。それはそう思う。
でも、紅先生。
出来るならことなら諸悪の根源であるあなたになんとかして欲しかった。恋人の居るあなたに犠牲になれとは言わないが、はたけ上忍に惚れられたい娘など、それこそ掃いて捨てる程いるだろうに・・・。
「多分、この任務中に効果は切れるとは思うけど、念のため緩和剤は作るようにするわ。それは安心して」
「俺は、どうすればいいんでしょうか」
「とりあえずカカシの前に顔を出さない方が懸命ね。なるべく逃げ回って欲しい。・・・イルカ、こんなことに巻き込んで本当にごめんなさい」
再度申し訳なさそうに頭を下げられる。
何に憤って良いのかわからなかった。薬の効果が短いならもうあのような目に合うこともないのだろう。
(じゃあ、・・・いいか)
話を聞き終え、これまで張っていた気が緩んでしまった。
昨日から混乱しっぱなしで怒る気力がないのもあるが、これ以上この麗しいくの一の頭を下げさせることもない。
確かに、原因は紅先生にある。しかし、自らソレを飲んだはたけカカシ。制止の声を振り切って医務室に入った俺。
各々責任があるのは明白なのだ。

 

(・・・あ〜眠てえ)
古い洗濯機はガタガタと床を鳴らしながら稼動する。洗剤の泡まみれになるシーツをぼんやり眺め、油断すれば眠気に引き込まれそうになる。
アカデミーを早退したものの、夕方には受付の業務が入ってるためまた出勤しなくてはならない。
少しでも仮眠をとろうとしたが、自宅のアパートに帰ると寝るような気分にはならなかった。
別にアパートの部屋はいつもと同じだ。何の変化も見えない。
昨晩あんな出来事があったとはとても思えなかった。玄関も綺麗なものだった。隅に溜まる土埃すら、一寸も乱れていないように見える。
もちろん部屋の中も変わりはない。
だが・・・、だからといって、何も感じないということもないのだ。
自宅の部屋で、何ら変化のない部屋を見渡し、今朝自分の寝ていたベッドに目をやり、ロクに整えていない乱れたシーツを見ると、言いようのない気持ちになった。
ベッドで男に抱かれた覚えはないが、気を失った俺を男がベッドに運んだのかと思うと情けなくてやりきれない。
なので、とりあえず洗濯をすることにした。幸い今日は天気が良い、昼過ぎには乾くだろう。
(久しぶりに拭き掃除もするかな)
洗濯機を覗き込みながら、次の予定をアレコレ考えた。
眠りたくないわけではなかった。
だが目を閉じると昨晩の光景が瞼裏に蘇るのだ。思い出したくないが、昨日今日のことを簡単忘れることなど出来やしない。
(事故だったのだ)
(犬に噛まれたと思え)
そう思い込むしかないような気がする。

 




  


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