長い夢
見事な朝焼けだった。
水に沈んだようだった静かな街が燃えるような赤に染まっていく。
走り疲れボンヤリとした頭の端に、その赤い色はやけに鮮やかだった。
(・・・アカデミーが始まるまでまだ時間があるな)
夏至の間近なこの時期は夜が明けるのが早い。少しは眠る時間があるだろう。
疲れに散っている精神をなんとか掻き集めて辺りの気配をさぐった。
どうやらドロシーちゃんは近くにいないようだ。
二日間追い回され、ようやく手に入れた休息だった。
「・・・ねむい」
もう一歩も動けないぐらいに疲れている。口を出た言葉も俺の願望そのもののはずだ。
けれど、不思議と目が冴えていた。
あと何日、こんな日々が続くのだろうか。
『俺の無事を祈ってなさいね』
去り際に言った男の台詞が憎たらしい。
ああ祈ってる。祈っているともよ。
早く帰って来いと、あの極悪面のドロシーちゃんに追い回されながら、俺はあんたの一刻も早い帰還だけを祈っている。
なぜ俺がこんな目に合わねばならん、そう憤るのもヘトヘトの体では出来なかった。
昨日までは追い回され半泣きにながらもまだ心中でカカシ先生のこのむごい仕打ちを心中で罵る余裕はあったのに。
二日続けてのフルマラソンに怒る気力さえ削がれてしまった(怒るのは体力がいる)。
ただ自分を解放してくれるであろうただ一人の男の帰還を願うばかりだ。
朝焼けの光が眩しい。眠くはなかったが目を閉じた。
カカシ先生は今何をしているだろうか。何処に居るのだろう。任務はもう終わっただろうか。
任務が終わり、里に向かって走っていればいいのに。
早く、早く。
帰って来い。
『俺の無事を祈って』
瞼の裏にカカシ先生が浮かんだ。最後に見たあの顔だった。
何故、あんな顔をしていたのかと、ふと思った。
カカシ先生の任務内容までは知らない。
もしかして。
嫌な考えが浮かぶ。
(もしかしてSランクじゃねーだろうな)
Sランクなどそうそうある事じゃない。だがあのカカシ先生はあの若さで既に何十ものSランク任務をこなしてきいる、らしい。
ある所にはあるのだ。
急に不安がせりあがる。
万が一、あの男が死んだりしたら。
ヒヤリとした汗が背中を走った。
それだけはマジで勘弁だ。ご免こうむる。
せめて俺をドロシーちゃんから解放してくれてからではなくては・・・・・。
「・・・馬鹿らし」
ふいに自分の考えが嫌になった。
あの男が死ぬものか。誰よりも強く、狡猾で、自分勝手なあの男が、死んだりするものか。
今だってきっと難しい任務だろうと淡々とこなしているに違いない。その合間にチラとでも俺のことを思いだしてほくそ笑んでるのだ。
いや、思い出さなくてもいい。帰って来さえすればいい。
どんな任務だろうと、例え凄惨極まりなくとも。
男は帰ってくるべきだ。
何のために、誰のために?
それは考えないようにした。
俺の言い分は酷く手前勝手な気がして、あまり良い気分がしない。俺をこんな窮地に追いやるのがカカシ先生自身だとしても。
だから、何も考えずただ祈る。
カカシ先生の帰還を。
カカシ先生の無事を。
下で不穏な音がした。
「お、おはよう、ドロシーちゃん」
木の根元でドロシーちゃんが憎らしげにガリガリと爪を立てている。しかしやはり犬、そう易々とこの一本杉には登ってはこれはしな・・・
(ドチクショウ)
さすがはドロシーちゃん、彼女は犬以上の生き物でいらっしゃるようだ。
僅かに助走をとり、ドロシーちゃんは猛烈な勢いで一本杉を駆け上ってきた。
俺はヤケクソで一本杉から飛び降りた。
「・・・カカシ先生早く帰ってきて」
舌を噛み切りそうになりながらも、願いを口にせずには居られなかった。
ひとしきりドロシーちゃんに追い回されアカデミーの職員室へ逃げ込む、じゃなかった出勤すると、その場に居た者たちからいっせいに目を逸らされた。
「おはよう」
とりあえず一番近くに居た同僚の肩を叩いて挨拶をする。
「・・・おはよー・・・・」
盛大にビクつきながら同僚はかろうじて返事をする。そのままそそくさと去ろうとするので、そいつ肩に置いた手に力を込めた。
「昨日はどうも」
「・・・・いやー・・・、ハハ、俺も忙しくてさー」
「へー」
「まー、何事も無さそうでよかったよ。さー・・・仕事仕事っと」
目を泳がせながら言うんじゃねえ。
「おい」
手に力を込めた。ギチギチと同僚の肩の肉を音を立てた。
「悪かったよ!!しょうがないだろ!恐かったんだよ!!あの生き物は反則だっ!!」
痛みに溜まらず同僚が喚きだした。
「うるせー馬鹿!!一番恐いのは俺に決まってんだろ!!なのに皆して逃げやがって!!なんで助けてくれなかったんだ?!」
木の葉の忍ともあろうもの共がなんて情けないんだ。
一介の中忍一人守りきれず、そんなことで里を果ては火の国を、守れるとでも思ってるのか。
「だから恐かったっつてんじゃねーか!!」
「俺が食われたらどうするつもりだ?!」
同僚につっかかっていると「落ち着け」と横やら後ろやらから押さえられた。
なんだよ。昨日俺のことは誰も助けてくれなかったのに!
悲しいやら腹が立つやらでめちゃくちゃに手足を振り回した。
「イデッ!やめてくれ!」
「ギャ!・・・イルカ落ち着け。現におまえは食われもせずピンピンしてるじゃないか!!さすがはイルカ!!アカデミーが誇る中忍教師!!」
「生徒達もイルカ先生かっこいいっつってたぞ!なっ?」
生徒という単語にピタリと体の動きが止まる。
思えば昨日生徒達の前で俺はいささか情けなかったような気がする。
ドロシーちゃんを前に泣きながら逃げてしまった。腰を抜かした生徒は守りきったが、果たしてあの時の自分の姿は格好良かっただろうか。
「・・・それ本当?」
「お、おう!さすがはイルカ先生って、昨日の一件でおまえはアカデミー生のヒーローに成り上がったんだ!!」
「超カッコイイってよ!」
「超イケメンだって!!」
口々に同僚達が昨日の俺の勇姿を賛美した。
超カッコイイか・・・へへ、超イケメンか。
悪くないな。
少しだけ気分が良くなった。可愛い生徒達の俺への威厳を損なわれなかったのなら、まあ良いとしよう。
こいつらの非道な裏切りは許せないが、アカデミーのヒーローとなった以上はやはり許さないわけにもいかない。
「今回は見逃してやる」
カッコイイ台詞を鷹揚に言ってやると周りの空気がホっと緩んだ。
「でも次は絶対助けてくれよな」
だがこの念押しで辺りの空気はまた固まる。
その時丁度タイミングが悪く、始業のベルが鳴った。
同僚達は何も言わずにそそくさと各々の持ちクラスへと向かった。
「助けてくれるんだろ?!な?なっ?!」
去っていく背に向かって叫んでも誰一人頷いてはくれなかった。
「・・・うみのくん」
職員室に置いてけぼられポツンと佇んでいると、後ろから声をかけられた。
「教頭先生!!」
振り返ると普段はあまり存在感のない教頭先生が立っていた。
この人ならば・・・・!!
きっと俺を見殺しにしたりしないはずだ。この人にとって俺は可愛い可愛い部下のはず。
「教頭先生は助けてくれますよね?!」
「いや、助けるも何も昨日の一件は全て君が原因でしょう」
「え?」
「アカデミー内にあんな凶悪な生物を持ち込んで、教師としての自覚が足りないとしか思えない」
「ええ?」
持ち込んでねーし!!あんたそりゃ誤解だよ!ドロシーちゃんが勝手に追いかけてくるんだよ!
「生徒達を恐怖と混乱に貶めた今回の件を上層部は非常に重く受け止めている」
「ちょっと待ってください!あれは・・・」
「シャーラップ!!」
必死で言い募ろうとする俺を教頭先生は一喝した。シャーラップってなんだよ。わからないがとにかくそれ以上喋れる空気ではない。
「すぐに火影室へと行きなさい。言い訳は聞きません。いいですか?今すぐにです!!」
「そんな・・・・」
火影室だなんてあんまりだ。
善良な中忍教師をどうして其処まで追い詰める必要がある。
「早く行かんか!!」
悲観にくれていると教頭先生に尻を蹴り上げられた。
「三代目!!誤解です!!俺はドロシーちゃんを連れ込んだ覚えはないですし、生徒達を酷い目に合わせようなどとはこれっから先も思っちゃいません!
俺だってドロシーちゃんに朝な夕なと追い回されて、被害者なんですよ!もう心身ともにボロボロです。おまけに火影室?!俺が咎められるんですか?!
なんでっ?!」
先手必勝だと思った。なので火影室で三代目の姿を見た途端に自分の言い分を精一杯伝えようとした。
火影室には三代目しか居らず、いつものように机の前に座りプカ〜っと煙草を吹かしていた。
「そもそも里の中枢でおこったことでしょう?!なぜ俺一人が追い回されなけらばならないんです!皆平等に追い回されるべきだ!!
それなのに・・・・それなのに、誰も助けちゃくれなかった!三代目何故です?!このむごい仕打ちの理由は?!
そもそもドロシーちゃんはカカシ先生の忍犬でしょう?!上忍の忍犬ならば何をしても許されるって・・・・、そうだ!
元はといえばカカシ先生です!!あの人がドロシーちゃんに俺を追い回すように仕向けて・・・・いてえ!」
途中で三代目に煙管を投げつけられた。喋るのに夢中でそれを避けきれずあえなく額宛にヒットした。
額宛越しとはいえ確かに感じた衝撃に俺の絶望は募るばかりだ。
(三代目も俺が悪いと思ってんのか?)
「イルカ、少し落ち着け」
「酷いです三代目。これまでずっと三代目に仕えてきた忠実な部下に向かって煙管なげつけるなんて」
耐え切れず涙が溢れ出た。
グズグズと鼻を鳴らしていると三代目は大げさにため息をついた。
「少し落ち着けと言うとるじゃろうが」
「だってカカシ先生が・・・・」
「カカシがどうした」
「俺のこと目の仇にして苛めます」
「ほう?」
三代目が深く被っていた笠を持ち上げ目を晒した。その目を細め何かを見透かすように俺を見る。
「カカシは主に付き合いを申し込んでると聞いたが」
言葉に詰まってしまった。誰だ、三代目に余計なこと言いやがった奴は。
確かに、確かに、そうとも言える。俺は毎日毎日カカシ先生に「好きだって言え」だの「付き合ってやろう」だの言われ続けている。
しかしだ、あれのどこが付き合いの申し込みだ?俺には喧嘩売ってるとしか思えない。
「三代目は何も知らないんだ。俺がカカシ先生にどんな仕打ちを受けているか・・・」
「お主に振られカカシも大層落ち込んだそうじゃないか」
「・・・・落ち込む姿なんか見たことありませんが」
「そうか。カカシの奴イルカの前じゃ気丈に振舞ってるのか。けなげじゃのー」
何か嫌な展開になってきたな。
カカシ先生を健気呼ばわりだなんて、もしかしなくても三代目はカカシ先生の肩を持つ気満々じゃないか。
「健気な人はあんな恐ろしい生物をけしかけたりしません。三代目、目を覚ましてください」
何とか話を俺の有利な方向へ持って行かなくては。
事実さえ伝われば、きっと三代目だってわかってくれる。あのドロシーちゃんだって現役火影の力でなんとかしてくれるかもしれない。
「それにカカシ先生は俺のこと好きじゃありません。俺のこと好きだったらあんな恐ろしい生物をけしかけたりません。三代目、お願いですから目を覚ましてください」
「可愛さ余って憎さ100倍か」
三代目の言い草に本気で眩暈がした。100倍になられちゃ困る。というか少しは俺の言い分を聞いてくれ。
なんだよ、チクショー。
「・・・三代目は俺のこともう可愛くないんだ。昔はあんなに可愛がってくれたのに」
鼻水垂らしながら訴えているというのに、三代目は平然として呑気にお茶なんか啜っている。
「イルカ、ワシはおまえが可愛い」
けれど、ふと顔をあげて三代目は言った。
な、なんだよ、改めて言われると照れるな。
「何頬を染めておる、気色悪い」
照れ隠しに鼻頭をポリポリ掻いているとまた煙管を投げつけられた。
「いてえ」
カツンと小気味良いを音を立て、煙管が額宛にあたった。
「カカシも可愛い」
「へ?」
顔を上げると三代目は椅子から立ち上がり俺に背を向けた。
「里のために20年文句一つ言わずに働いてきたあの子が、ワシは可愛くて溜まらんよ」
いつもと変わらぬ声音だ。「商店街で水饅頭買ってきてくれ」ってのと同じような、淡々とした声だった。
(・・・三代目?)
声をかけるのに憚られた。
何を言いたいのか、もしかするとカカシ先生申し込みを受けろとでも言いたいのか。
訝しむ目には三代目の緩やかな背中しか写らない。
「もう良い。下がれ」
結局俺は特に咎めを受けるわけでもなく、何をしに行ったのかわからないまま火影室を後にした。
どうも釈然としないな。
「おかわりを下さい」
食堂のカウンターで丼を差し出しながら、自分を取り巻く現状を改めて思い返した。
「・・・イルカ、おまえ良くそんなに食えるな」
丼を抱え戻ると斜め横で飯を食っていた同僚に呆れたように言われた。
「食わなきゃやってられないだろ」
こちとら寝ずに頑張ってんだ、これで飯すら食わなかったらマジで俺は死ぬぞ。
「来るべき時に備えてんだ。ソレ残すのならくれ」
「ああ、やるよ。・・・・食ってくれ」
同僚は手付かずになっていたお新香をおしげもなく俺の丼にいれてくれた。他にも周りで飯を食っていた同僚達が次々に立ち上がり俺の食膳に差し入れてくる。
「俺もやる。ほら、プリンだ」
「俺も」
「俺も」
どんどん差し出される貢物を俺が黙って受け取った。
奴らがこんなに優しいのには訳がある。昨日俺を見殺しにしたことだけでなく、朝俺に嘘を吐いたのだ。
何が生徒達のヒーローだ。ふざけるな。火影室を後にして少し送れて教室へ行くと、生徒達に一斉に冷やかされた。
「泣き虫せんせー」だの「人攫い」だの、散々だった。
誰が泣き虫先生だコラ、昨日小便ちびりそうになって震え上がってたのは何処のどいつだ。
けれどついさっき火影室で半泣きで喚いた俺の涙腺は生徒達の辛辣な言葉に耐えられない。
泣いてたまるか、そう必死で我慢してたのに、無駄に視力の良い生徒達はすぐに俺の目の端に溜まる涙を見つけられた。
「イルカせんせーが泣いてるぞー!!」「やーい!!」「なっきむっし先生♪わっしょいわっしょい」
愕然とした。
もう授業どころじゃない。まさにお祭り騒ぎだよ、わっしょい・・・。
当然、隣で普通に授業をしていたクラスの担任からは苦情が入った。けれど俺が教壇の前で打ちひしがれているのを見ると、何も言わずに戻っていった。
生徒達を諫めるくらいしてくれてもいいのに・・・、またも放置だ。
(もう何も信じるものか)
差し入れのプリンを一気に喉に流し入れながら、俺は心の底から世の無常を感じていた。
「おまえって本当タフだよなあ」
チラリと横へ視線をやると、同僚が頬杖ついて俺を見ていた。どこか遠い目をしている。
「普通だろ」
言うと、アハハと笑われた。少しムカついたが怒るのにも疲れたのでまた飯を食うことに没頭した。
(・・・あ〜眠い)
ある程度腹が膨れるとまた睡魔に襲われそうになる。頭を振ってそれを追い払う。
まだ午後の授業が残っている。居眠りをこくわけにはいかなかった。
ただでさえ「泣き虫先生」の汚名を被せられてるのだ。これ以上生徒達の前で失態を晒すことは出来ない。
「ご馳走様でした」
殻になった食膳に手を合わせて席をたった。僅かに体が揺れる気がしたが、気力で足を踏ん張った。
(そろそろヤバイなぁ)
今日こそは眠らなくては。
1時間でも2時間でもいい。俺に睡眠時間を。
そのためには夕方になればやってくるであろうドロシーちゃんを返り討ちにする必要があった。
覚束ない足取りになっている自覚はあったが歩けるのだからまだ大丈夫だろう。
これ以上疲れる前にドロシーちゃんをなんとかしなくては。
カカシ先生はまだ帰って来ない。
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