アンコール
(・・・ヤベ!来た)
丼を抱えたまま椅子から飛び上がった。そのまま窓から脱出する。
「はたけ上忍はいらっしゃいますか?」
「窓から逃げた。今なら追いつくかもよ」
一緒に飯を食っていた男が、しゃあしゃあと俺の脱路を喋る。
このクソ野郎。
俺は忌々しい気持ちでそれを屋根の上で聞いていた。
「ありがとうございます」
イルカの気配が窓に近づく。
ふと、興味が沸いた。
イルカはどういう顔をして俺を探しているのだろう。
(まあ、いつもの鉄面皮に違いないけど)
それでも気づくと気配を消して下を覗き込んでいた。
ひょっこりとイルカの頭が窓から顔を出す。イルカが辺りを見渡す度に、頭上のしっぽがヒョコヒョコ揺れる。
(掴み上げたらイルカは痛がるだろうか)
もう少しで手が伸びそうになり、慌てて引っ込めた。
何考えてんだ、俺は。
逃げなければという心とは裏腹に体はその場を動こうとしない。
(ま、大丈夫なんだけど)
イルカに追いかけられ早二週間、少しは冷静になることが出来た。
で、ごく当たり前のことに気づいた。
イルカは中忍なのだ。
いくら妙な迫力があろうとも中忍、忍としてはそれだけの実力。当然俺には敵いはしない。
俺が気配を消せば、イルカは俺に気づかない。逃げれば、イルカは俺に追いつくことは出来ない。
その事実は妙に俺を安心させた。
逃げるだけなのも癪だが、それしか道はないから仕方ない。
「イルカちゃーん、ケツ、ガラ空きだよ〜」
そろそろ行くかと体勢を整えた時、室内から下卑た笑い声が聞こえた。
(・・・は?)
スっと体温が下がる気がした。
今、あいつ等なんて言った?
「カカシなんかやめて俺を相手にしてよ」
「おい、やめろ」
室内に居たのは、確か上忍が4人。皆が笑っているわけではなさそうだ。俺の脱路を喋った奴は少なくともその場を諌めているようだった。
けれど。
下卑た笑いは止まない。
(耳障りだ)
イルカを侮辱するような言葉は、吐かれてはならない。
「結構です」
窓から覗かせていた顔を引っ込め、イルカが抑揚のない声で言った。
一瞬、その場は水を打ったように静かになるが、それもまた汚い笑い声にかき消される。
「中忍如きが大きく出たね〜」
ザワリと自分の周りの気配が変わるのがわかった。
こんな卑しい場所になぜイルカはいるのだと、イルカの愚鈍さが憎らしくなる。
(馬鹿が、すぐにこの場から去れ)
手の中の丼が軋む。
なのに、イルカはまた窓から顔を出した。
「はたけ上忍」
それからまっすぐに俺を見上げた。
「そんな処でお食事ですか?」
いつもと同じ無愛想な顔だ。可愛くない。馬鹿にされてるってのに、やっぱり眉一つ動かしやしない。
言いようのない憤りと、ふいを衝かれた焦りとで、俺はそのままイルカの首根っこを掴み引っ張り上げた。
とにかくあの場にイルカを置いておきたくなかった。
「痛いです」
「我慢しな」
不満を言うイルカをそのまま担ぎ上げ、とりあえず屋根から下りた。
「はたけ上忍、丼忘れてますよ」
それがどーしたと思うのも馬鹿らしいので「後で回収します」と言っておいた。
「お食事の邪魔して申し訳ございませんでした」
アカデミーの裏庭でイルカを肩から下ろすと、すぐに体勢を整え頭を下げた。
(あ〜ムカつく)
あれだけ探し回っといて、第一声は「申し訳ございません」。
「この際だから言っとくけど、俺あんたのこと嫌いだから」
イルカが顔を上げる前に口早に捲くし立てた。
「ああいうの、本当に迷惑なんだよ。追いかけられる毎にあんたを嫌いになっていく。いい加減、諦めてよ」
僅かにイルカの肩が揺れた。
イルカには事ある毎に酷い事を言っていたつもりだったが、そういえば「嫌い」だと言ったことはなかった。
ムカつくとは言ったが「嫌い」だとは言ってない。
イルカの前ではいつも俺は感情的な事ばかり口走っている。
その中にはこの言葉は含まれていなかった。
(まさか、これしきで・・・)
イルカを傷つけることが出来るなんて思いもしなかった。
「・・・言いたいことあるなら、顔上げれば」
何を期待しているのか、動悸が早くなる。
早く、顔を上げて。
どんな顔をしているか、俺に見せて。
「はたけ上忍は、嫌いな男と寝るのですか?」
顔を伏せたまま、イルカが普段より張りのない声で呟いた。
その声に心臓が揺さぶられる。興奮に震える声で更にイルカを追い詰めた。
「寝れるね。現にあんたと寝たじゃない」
イルカの肩がまた揺れる。
顔を上げるのを待ってられなかった。イルカの顎を掴み、無理やり上を向かせる。
(・・・・最悪だ)
イルカの表情はいつもと変わらなかった。
「あんたなんか大嫌いだ」
子供のような言葉を吐き、イルカを土に投げ捨てた。
イルカの首根っこを引っ張りあげてから一日目、イルカはさすがに俺を探しはしなかった。
イルカを土に投げ捨ててから二日目、イルカは俺を探していないようだった。
イルカに「嫌い」だと言ってから三日目、イルカはまだ俺を探しに来ない。
イルカに「大嫌い」だと言い捨てて逃げた四日目、もうイルカは俺を探さない。
清々する。
毎日毎日追い回されて、逃げるのにも疲れてたところだ。
あの無愛想な顔を見なくて済む。あの抑揚のない声を聞かなくて済む。
いつも、いつもいつもいつもいつもいつもイルカにはムカつかされていた。
突拍子もない言葉を吐くイルカも、伝わらない言葉を喚く自分も、何もかも気に入らなかった。
(・・・・クソ、ムカつくな)
まだ、駄目だ。
イルカの事を考えると、まだムナクソ悪くなってくる。
いつになったらこの気持ち悪さはなくなるんだ。
「ちくしょう」
恐ろしい程胸が痛い。
偶然かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
気がついたら俺は普段は滅多に通らない商店街をフラフラ歩いていた。
目的ならあった。
刃物手入れの磨ぎ石を買うという、もっともらしい理由だ。
けれど、別に磨ぎ石なんて今すぐに欲しかったわけじゃなく、別にこの商店街にある店でなくてはならない理由もない。
「少々お待ちください」
店番の男の子が奥に引っ込んでいくのを見送ると、手持ち無沙汰になったままに外を眺めていた。
夕暮れ時の商店街は随分と騒がしい。
木の葉はこんな町だったかとふと思った。
もっと閑散としていたような気がする。
(・・・どうだったかねえ・・・)
九尾に襲われた後は、里全体が没しているかのように静かだった。
けれどそれ以前、一時は栄華を極めたとまで言われた里を、戦場で育ったも同然の俺は知らないのだ。
(・・・そうでもないはずだけど)
上忍師の下スリーマンセルを組んでいた時もあった。その頃は町に住んでいたはずだ。
にも関わらず、あまりにも町並みや風景はおぼろげだった。
あの仲間達のことは、今もなお鮮明に自分の中に息づいているというのに。
こんな風景は知らなかった。
体も大きくなり、年もとった。幼い頃の自分と今の自分とでは見えているものが違うのもあるだろう。
ふと、小さなザワつきを胸に感じた。
最近よくこういう風に胸がザワつく。
大抵はイルカの前で。
けれど、今こうしてイルカの居ない場所で感じるザワつきは微々たるものだけに、少しは冷静に分析することが出来た。
多分、
不安なのだ。
これまで知らなかったモノを前に、途方にくれているのだ。
経験は確かな力になる。それらは自分に知恵を与え技を与え、より生き抜く術を教えた。
戦場ではそれが全てなのだ。
未知の敵に対しては可能な限りの情報収集をするのは鉄則だ。
行き当たりバッタリに物事に対峙することは死を招くだけだった。
なのに。
イルカは俺がこれまで全く知らなかったことをしでかした。
強姦した男相手に、床に頭を擦りつけ、「一生涯」と口にした。
経験もないし、予想もしていなかった、そんな言葉を前に、一瞬で頭がショートした。
どうしていいかわからなかった。
戦場では常に相手の先を見通せた目も、イルカの硬質な気配に阻まれ何も見えなくなった。
感じるのはイルカの存在だけだった。
闇雲に手を振り回しても、口汚く罵っても、その存在は怯まない。
こんな経験はしたことがなかった。
攻略法が見当たらない俺に残された術は、ただ逃げるしかなかった。
(じゃないと、死んじまう)
逃げずにいたら、その存在に押しつぶされて俺は死ぬ。
本気でそう思うのだ。
いつも、胸が痛い。
イルカを想うだけで、胸が潰れそうになる。
(・・・イルカ)
人混みの中で、一際目に飛び込んできた人物がいた。
久しぶりに見る姿に、周りの喧騒も掻き消える。
イルカはいつもと同じように背を伸ばし、歩幅すら計算されつくされているかのように規則的に歩いていた。
手には買い物袋を下げている。これから家に帰って夕飯の仕度でもするのだろう。
夕焼けに染まる商店街には、いくつもの長い影が伸びていた。
イルカの影が、様々な影の上を重なって通り過ぎる。
ふと、イルカの足が止まった。
俺の居る店から二軒先向かいの八百屋の前で、店主のような男に声をかけられていた。俺からはイルカの後姿しか見えなかったが、大体イルカが何をしているかはわかった。
ただ、野菜を物色しているだけだ。
なのに八百屋の店主は豪快な笑い顔を見せ、いくつかの野菜をポンポンとビニール袋に放りこんでいく。
その光景がキツイ。
どうして、他の者は皆、イルカを前にして怯まないのだろうかと、心底不思議だった。
皆、イルカと対峙する術を知っているのだろうか。
この赤く染まった騒がしい風景で育った者ならば、ソレは身につくものなのだろうか。
だとしたら、俺には無理じゃないか。
俺の育った風景はこんな穏やかなものではないのに。
イルカがビニール袋を手にまた歩き出した。
俺がここに居ることにイルカは気づきやしない。
せめて。
せめて、イルカが気づいてくれたら。
俺は何も知らないのだと気づいてくれたら。ただ恐がっているのだと解かってくれたら。
一生涯、あなたと共に過ごします
教えて欲しい。
あんたは何を考えているのか。
そして、見せて。
あんたの言葉通りなら、俺の存在をあんたの中に見つけさせて。
不安なんだ。
あんたの住む世界は俺みたいなのが足を踏み入れていい場所じゃないんじゃないかと。
俺みたいなのは受け入れられないんじゃないかと。
さしずめこっちは地獄そっちは天国。
あんたは件の阿弥陀のように、気まぐれに蓮の池から地獄を覗いてみたんだろう。
そこで何となく目が会った俺を助けてみたくなっただけじゃないのか。
気まぐれに、声をかけて。なんて残酷な。
ああでも、件の阿弥陀の方がまだマシだ。
奴は罪人を助ける手段を示した。そこから這い登って来いと、蜘蛛の糸一本垂らしてやったんだよ。
ねえイルカ。
無責任に言葉だけ吐かないで。
ちゃんとそっちへ行く道を指し示して。
あんたのその光で。
俺を助けて。
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